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    <title>歴史散歩</title>
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    <updated>2008-05-30T02:33:13Z</updated>
    <subtitle>９９ビューに掲載中の歴史散歩同行二人
池田和博、小川照郷の二人が、佐世保の歴史を歩きます。</subtitle>
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    <title>春の山里に聞こえる鉦や太鼓の木場浮立</title>
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    <published>2008-05-30T02:31:15Z</published>
    <updated>2008-05-30T02:33:13Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.223/22301.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0"></div>
<br>
　4月の第１日曜日は木場浮立が年に一度現地で公開される日である。久々に浮立を見ようと、浮立の里上木場へと向かった。黒髪町の新興住宅街を抜け、烏帽子岳の東側急斜面に広がる棚田の間を上って行くと、台地上に広がる小さな集落に着いた。<br>
　木場児童公園下で車を降ると、眼下に天神山や赤崎岳、弓張岳に囲まれた佐世保港が春霞の中に浮かんで見える。背後は木場山から下りる斜面が屏風のように聳えている。緑の山の端に空の青が映え、ヒバリの囀りやウグイスの声が聞こえてくる。まるで桃源郷である。<br>
　今日の会場となる公園のグラウンドの桜は今が満開である。まず、グラウンドの一段上にある木場浮立研修所を訪れた。研修所からはちょうど浮立を舞う地元の人々が出てくるところであった。赤や黒の衣装が鮮やかである。研修所では浮立の稽古が毎週行われ、代々口伝えに手取り足取りで教えられている。元来は男性だけで演じられていたが、後継者不足で、近年では女性や子供も加わっている。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.223/22302.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">木場の台地から眺める日宇地区。</div>
<br>
　木場浮立は今から二百年以上前に、有田町竜泉寺から横手をへて伝えられたと言われ、雨乞いや豊年祝いとして演ぜられてきた。「囃子」、「舞」、「行列」の三つで構成されたものは珍しく、長崎県の無形文化財に指定されている。<br>
　グラウンドに下りると既に大勢の観客が集っていた。午後２時、浮立の里に笛の音が響き、鉦の音がこだますといよいよ浮立の始まりである。<br>
　まず最初は、「大名行列」である。先頭は５人の子供たちによる鉄砲隊、続いて、抜き足差し足で進む毛槍の行列、そのあとを七つの鉦、笛、太鼓など次々と登場する。このうち地囃しは、締太鼓を四個上に向けて連ね、赤い着物に、五色の色紙をつけた女性たちが、小バチで打つ。道中踊りは、「提灯持ち」が二人一組で、後を振り向き、首を振るなど面白い所作で交代する。また鎧武者の「薙刀踊り」もあった。<br>
　木場名物の獅子舞は、黒法被、黒脚絆、わらじ姿の男が竹のササラをシャッシャッと鳴らしながら獅子を先導する。獅子の中には大人が頭と尻に二人入っている。そのしぐさと大きな目がなんともユーモラスである。以前は田んぼの畦道を進んで来たという。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.223/22303.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">木場浮立は大名行列を模してあるようだ。</div>
<br>
　シンガリが登場する頃には、行列はグラウンドを半周するほどの長さになった。「行列」が一回りすると、グラウンドの中央にゴザが敷かれ、「舞」に移る。ゴサの上には子供たちが座り、笛に合わせて可愛い仕種で鉦をたたく。<br>
　木場浮立の「舞」は七つの演目からなる。初めの三番叟は、祝いの舞で、男が長烏帽子をかぶり、袴をつけ、花模様の長袖きものに十字のたすきがけで、小太鼓４個のはやしで舞う。三方見世は幼女が三宝という器物を取り出し、踊ったことに由来している。今年は11歳の少女が、鳳凰の鳥とヨータラと呼ばれる玉飾りの付いた冠をかぶり、太鼓をたたき舞った。玄藩も雨乞いの踊りで、白衣に袴の男が、長いシカの角のような二つの色紙の房を付け、頭を大きく振りながら舞う。<br>
　さらに「舞」は、岡崎、追い回し、と続き、最後は江戸浮立である。江戸浮立は、黒法被をつけた二人が、大太鼓の両面を豪壮に打ち鳴らした。この後獅子舞が再度登場し、浮立は幕を閉じた。<br>
「木場浮立のもととなる竜泉寺浮立は、時の住職が弘法大師の雨ごいの秘法に基づいて祈願し、考え出したとの説もあるね」<br>
「雨乞いや豊年祝いとして始まったから、もともとは夏か秋に行われたとやろね」<br>
<br>
 　桜吹雪が舞う中、帰り支度をする人々を見ていると祭りの後の一抹の寂しさが残る。しかし、ピーヒャラドン、ピーヒャラドンとなつかしい日本の音色を聞き、ゆったりとした踊りを眺めていたおかげで、身も心もなごみ緩んだ。今日は一年で一番のハレの日であった。<br>
<div class="clear"></div>
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    <title>フロイスの「日本史」に書かれた針尾伊賀守の城跡</title>
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    <published>2008-05-10T07:49:51Z</published>
    <updated>2008-05-10T07:52:04Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.222/22201.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0"></div>
<br>
 　 針尾島を縦断する国道２０２号を西海橋方向へと進んだ。針尾地区公民館を過ぎたところで右折し、針尾無線塔方向へと続くミカン畑の小道をぐるりと回り込みながら下りて行くと小さな港に着いた。ここが小鯛浦である。<br>
　公園の前に車を留めて歩き始めた。港は四方を山に囲まれ、湖と間違えそうである。港に係留された白い小舟が、瀬戸から寄せる波に揺られてパチャパチャと音を立てている。ハクモクレンや桃の花が満開で春爛漫である。<br>
　海岸沿いに立つ造船所や民家の前を通って針尾城へと向かった。針尾城の背後に回り込むようにして小道を上って行くと、真っ赤なツバキの落ち花が道々を飾っていた。城跡に入ると、土塁と空堀の中に木の枝を並べた階段が残っていた。平成16年の発掘で取り付けられたものである。本丸跡に入ると高い木立の上をカラスが飛び交っていた。どうやら近くのミカン畑に捨てられたミカンをここでついばんでいるらしい。発掘のときに出てきた建物の柱穴の跡や大手の位置などを確認しながら本丸跡を歩いた。針尾城は中世の山城で、二重の土塁が半円を描いている。前面は崖で、城全体が港に対面した構えになっており、東西80ｍ、南北60ｍ程の広さである。<br>
「針尾城は、ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが書いた『日本史』に登場するよね」<br>
「佐世保の城が世界史の舞台に登場するのはすごかよね」<br>
　『日本史』には、針尾城は針尾伊賀守の城として、「大村の海が極めて潮の流れ激しく奔走する海域のそばに城を構えていた」とある。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.222/22202.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">針尾城跡の一画にある古い五重塔。</div>
<br>
　 また発掘調査の結果、城跡からは、12世紀〜16世紀の中国や朝鮮半島、タイ産などの輸入陶磁器、また備前などの国内産の陶磁器が出土し、広く国内外と交易していたことが分かった。このほか、硯や茶臼のなどの石器、鉄砲の弾を作る坩堝なども出土した。<br>
　中でも、16世紀頃の中国・景徳鎮窯の六角脚付瓶は、トルコ、イタリアに次ぐ世界で３例目という貴重なものであった。恐らくポルトガル貿易によるものであろう。<br>
　針尾氏は、松浦党と同じように経済基盤を漁業においていたようであるが、時に海賊行為を働いて、倭寇と恐れられていた。<br>
　針尾伊賀守が世界史の表舞台の登場するのは、永禄６年（１５６３）に起きた「横瀬浦襲撃事件」である。伊賀守は、大村領内にあった横瀬浦を監督をする奉行をしていたが、キリシタン大名の大村純忠に叛いて、武雄の後藤貴明と結託し、横瀬浦にいたイエズス会の宣教師たちと純忠の暗殺を計画した。計画は失敗に終わったたが、横瀬浦は焼け落ちてしまう。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.222/22203.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">針尾城跡は二重の空掘が今も残っている。</div>
<br>
　 針尾島東部は、当初先住民の佐志方氏の勢力下にあった。一時は針尾氏が全島を治めた時期もあったが、元亀３年（１５７２）に伊賀守の子・針尾三郎左衛門が平戸松浦氏に滅ばされ、針尾島での勢力を失ってしまう。<br>
　深さ２ｍもある空堀など城跡を一巡した後、港まで下りて、瀬戸が一望できる所まで歩いた。近くで見ると瀬戸の流れはやはり早い。右手の岬の向こうは横瀬浦、左手は西海橋である。<br>
<br>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.222/22204.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">針尾伊賀守はこの針尾瀬戸を支配していた。</div>
<br>
　  横横瀬浦襲撃事件の様子などを語り合いながら再び浦へと戻り、対岸の林へ一直線に伸びる神社の階段を上った。鳥居を潜ると小さな境内に出た。戸御崎神社は、江戸時代までは祇園社といい、天台宗祇園寺の境内にある神仏習合の神社であった。第２鳥居には平安時代末期の延久三年（１０７１）の銘がある。<br>
　「東彼杵神社明細帳」には、祭神は蘇民（中国人）招来の船に乗り、鯛ノ浦から小鯛に着いたとある。また、古くから小鯛浦で造船所を営んでいる松永家には船神の祀り方に関する文書が残っている。<br>
　港から吹き上げる春の風が、潮の香りを運んで来る。陽光を受けてキラキラとさざ波立つ小鯛の海は、確かに古の昔から海外へと開けていたのである。<br>
<br>
<div class="clear"></div>]]>
        
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    <title>矢峰あたりに残る男と女の神様の話</title>
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    <published>2008-04-11T12:23:52Z</published>
    <updated>2008-04-11T12:29:27Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.221/22101.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">「幸神神社」は塞の神。</div>
<br>
 　国道４９８号を大野から柚木方向へと上って行き、泉福寺付近に差しかかると高層アパート群が目に入る。この付近には近年大型スーパーマーケットやドラッグストアー、衣料店などち並び、風景が一変した。大河停先のバイキングスタイルの食堂で昼食を取った後、近辺を散策することにした。数日続いた寒波も去り、久しぶりにおだやかな日和となった。<br>
　国道を渡って少し歩くと、真新しいシメ縄が掲げられた鳥居があった。淀姫神社の大シメ縄である。ここから、十数メートル先で右に90度転じた所にもう一つの鳥居があった。この鳥居の柱は少し地中に埋まっており、ちょうど人の背の高さと同じくらいである。額には淀姫大明神とあり、恐らく江戸時代のものであろう。鳥居を潜って進むと相浦川を背にして社殿が立っていた。<br>
　淀姫神社は松原町と矢峰町の鎮守神で、祭神は、海の神・大綿津見神の娘豊玉姫命である。淀姫神社では毎年１月26日にヤモード神事が行われる。松原、矢峰両町が、それぞれ一本ずつ大縄をない、それらを合わせて一本の大シメ縄を作る。この後、昔は二人のヤモード（両町から選ばれた若者）が相浦川に飛び込んでミソギを行っていたが、現在は山中の堤で行っている。ミソギをすませたヤモードたちは鳥居に登り、六百キロ程もある大シメ縄を町民とともに架ける。<br>
　「北松浦神社明細帳」によると、淀姫神社の創建は平安時代の長和２年（１０１３）とある。相浦谷開拓が進み、相浦からこの地に及んだとき、竹辺大宮姫神社の分霊を祀ったとの説もある。<br>
　境内を一回りした後、再び国道を矢峰営業所まで進み、道脇に立つ六地蔵を見つけた。二十数年前に訪れたときは、道路の反対側にあり、その昔は更に小川の土手の上にあったという。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.221/22102.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">大野の淀姫神社の大シメ縄ヤモード神事が今に残る。</div>
<br>
　六体の地蔵さんの下の竿（柱）の部分に、延命地蔵と共に「預修　玉林宗金尊位」の文字が刻まれており、松浦16代宗金親の供養塔である。弘治元年（１５５５）の銘もあり、親が58歳のときのことである。<br>
　16代親は波瀾万丈の人生を送った人物である。明応７年（１４９８）の大智庵城落城の際に、平戸松浦氏の人質となるが、その後旧家臣団によって救出され、相浦飯盛城を築く。これより、少弐氏や有馬氏などの戦国大名から次々と養子を迎え勢力維持に努めるが、二度にわたる飯盛城攻めで、ついには平戸松浦氏の支配下に置かれてしまう。騒乱と策略の中で、明日をも知れぬ身から、生前親は相浦谷の各地に同じような供養塔などを建てている。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.221/22103.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">国道脇に立つ六地蔵尊（ろくんぞさん）</div>
<br>
　国道を横切り、小川沿いに上って行くと、矢峰公民館下に幸神神社があった。塞（幸）の神は、男女の縁結びの神様であるとともに、村境に立つ道祖神として、外敵や災いを防ぐ神様である。お堂の中のご神体は自然石であるが、この神社と六地蔵の脇にあった男女神とは関係があるのかも知れない。<br>
　お堂の上を見上げると、丘の先端に墓碑が見えた。登ってみると五輪塔や板碑等の中世墓碑が並んでおり、寺院の跡のようである。下の六地蔵もここと関係があるのかもしれない。ここからは大野川（相浦川）流域の町並みが一望できる。澄み渡った青空に、午後の日差しが心地よい。墓碑群の横に立つクロガネモチノキの赤い実をヒヨドリがついばんでいた。<br>
　矢峰から小舟地区へと、棚田の中の曲がりくねった道を一気にかけ登った。山の中腹に開けた台地状に開けた高台が矢峰の名の由来である。<br>
<br>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.221/22104.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">かつて矢峰の台地には、古い寺があったようだ。</div>
<br>
　 小舟地区の東、矢峰町との境に二つの堤があった。岳田池と岳下池である。以前来たときにはバス釣りの小船が浮かんでいたが、渇水のせいか池の水も少なく、池の回りには柵がしてあった。それでも、この付近には古い石垣のある農家が点在し、下界とは別世界の静かな村里風景である。池の横の畑には、春を告げる紅梅の蕾が膨らみ始め、あたり一面に芳しい匂いを漂わせていた。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
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    <title>早起きして、朝市に行ってみんね</title>
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    <published>2008-03-05T02:41:35Z</published>
    <updated>2008-03-05T02:59:15Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.220/22001.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">　</div>
<br>
  午前６時前に目を覚まし、万津町の朝市会場へと向かった。日の出前の国道35号はまだ暗い。戸尾交差点を折して国道３８４号を直進し、更に旧水上交番を左折すると、オレンジ色の水銀灯が前方の近海航路用の新みなとターミナルビルをほのかに照らし出している。<br>
　埋め立て地から右折し、旧万津ターミナルビルの前を直進して朝市会場に着いた。佐世保川尻の船着場と背中合わせの朝市現場の周囲には、荷物を運び入れる車と利用者の車がズラリと並んでいる。今日１月10日は年に一度のぜんざい会が開かれる日であった。車の外に出ると冷気が身にしみる。<br>
　屋根付きの朝市会場では、それぞれのコーナーにはおばさんたちが陣取って、とれたての魚や、野菜、果物、干し物のほか一般の食料品や雑貨まで並べられている。中には、炭火を囲んでサザエなどを焼く人々もいて、こおばしい潮の香りがした。会場の３ヵ所に大鍋が置かれ、利用者にぜんざいがふるまわれていた。白い息をたてながら食べる甘いぜんざいとホカホカの餅がすきっ腹にしみ込んだ。今日のお客は主婦は勿論のこと料理屋の板前さん、小売業者のほか、ぜんざい目当ての市民や観光客もいるようである。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.220/22002.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">　　</div>
<br>
「十数年前に来たときはもっと活気があったようだけど」<br>
「河岸に係留されている近海からの小型船の数も以前ほどではないね」<br>
　平成９年に対岸にあった魚市場が相浦に移転したのが大きく響いているようだ。また、大形スーパーやコンビニなどが増え、消費者の趣向も変わってきている。しかし、毎日生産者から直接提供される、新鮮な魚や野菜が手に入る場所は日本中探してもなかなかないのではなかろうか。<br>
<br>
 朝市の歴史は古く、戦前、今のアルバカーキ橋付近の湊町の川沿いに自然発生的に始まったという。戦後は旧水上警察の裏と海岸通りで開かれていたが、交通の妨げになるなどの理由で、昭和46年７月に現在の場所に移転した。朝市は午前３時頃から午前９時まで開かれ、その後は市営駐車となる。ぜんざい会もことしで37回を迎えた。<br>
　佐世保の市場の歴史はさらに古く、明治19年に海軍鎮守府の設置が決定されると、明治21年には大村湾水産組合が設置された。その後、青果市場が大正８年、魚市場が大正９年に市営化された。全国で最初に中央卸売市場を開設した京都市は、その開設にあたり、大正13年に佐世保の市営市場を視察した。<br>
<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.220/22003.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">　　</div>
<br>

 旬の野菜の香りをかぎながら会場を歩き始めると、常連客の「百円まけてくれんね」というかけ声も聞こえる。一巡りして外に出ると、日の出とともにあたりはすっかり明るくなっていた。万津町から塩浜町へと抜ける路地に入ると、昔ながらのコンニャク屋、仕出し寿司屋なども早朝から開店していた。<br>
　路地を抜けると旧海岸通りである。前面にはポートルネッサンス21計画の埋め立て地に雑草が繁っていた。以前ここは魚市場の入江の小さな海岸で、朝市が開かれていた所である。青空市場、海岸市場の愛称で親しまれていた。岸壁には漁船が係留され、ウォーターポリスと英語で書かれた水上警察の小型船も波に揺れていたが、今はない。周辺は新しいビルや施設、高速道路などが建設され、潮の香りがしなくなった。この場所は今市民を巻き込んで新しい計画案が論議されているが、どのように変化していくのであろうか。<br>
　「あの角に以前は野菜や果物の据え売りをしていたおばさんたちがいたよね」などと話ながら、通りに面した赤いノレンの食堂に入った。ここは船員さんなどのために早朝から開店している。大盛りのご飯に、味噌汁、魚、ノリなどの朝飯を格安で食べることができる。この時代に朝食を売りの目玉に経営されている店が残っていることに、港佐世保もまだまだ健在なのだと、なんとなく安堵した。<br>
<br>
<div class="clear"></div>]]>
        
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    <title>遠藤但馬守の城跡は街中にある</title>
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    <published>2008-02-06T01:24:01Z</published>
    <updated>2008-02-06T01:26:41Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.219/21901.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">　</div>
<br>
 　年の瀬を迎える頃、八幡神社の裏手から佐世保城跡へと、曲がりくねった細い路地を上って行く。路地が終わる手前で左に折れ、急な階段を上り詰めた所から更に少し左手に進むと、大きな倒木が道を塞いでいた。大木を潜り抜け歩いて行くと、尾根に鋭く切り込まれた切り通しに出た。眼下には宮田・俵町の市街地が広がり、住宅がすぐ足元まで迫っている。<br>
　人の倍の高さもあるこの切り通しは、佐世保城の堀切の跡である。これを境に右手が出丸跡、左手が本丸跡である。左手の岩場をよじ登り、雑木林を抜けると、崖の淵に鉄柵が伸びていた。斜面は急傾斜地崩壊対策工事で削り取られ、コンクリート造成されている。鉄柵沿いに進みながら、以前あった土橋がほとんど確認できないことに気づいた。<br>
　本丸跡を10数年前に訪れたときには、直径30ｍ程の本丸の回りには土塁がめぐらされ、所々石積みで補強されていたが、近年の造成工事でかなり削り取られてしまっている。
　本丸跡の先には両側に犬走りと呼ばれる土の回廊もある。城跡の先端は新しい畑ができてかなり変化していた。標高約70ｍの城の回りは市街地まで断崖絶壁で、攻め落とすのは不可能に近い。佐世保城は守りのための城である。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.219/21902.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">切り通しは佐世保城の堀切の跡と思われる。</div>
<br>
 　帰りは中央の堀切から宮田町の市街地へと急勾配の石段を一直線に下りて行った。国道と佐世保川を渡り、保立公園の麓の川畔に祀られる鼻繰り石を訪れた。槇と山茶花の木の下に、直径50ｍ程の楕円形のひらたい石の中がくり抜かれており、鼻繰の名の由来ともいわれる。鼻繰城跡がある保立公園は、戦前佐世保重砲大隊が演習場に使っていたもので、その削平工事でかなりの部分が破壊されている。現在は僅かに周辺部に土塁や石積の一部と思われるものが残っているだけである。<br>
　一体遠藤但馬守とはどのような人物であろうか。「遠藤氏系図」によれば、遠藤但馬守は平戸南部大川原の出で、飯盛城攻防戦の時の宗家松浦氏と平戸松浦氏との仲介役として登場する。しかしその後、平戸からの養子九郎親を飯盛城へ迎えるという条件のもと和睦が成立し、相神浦（相浦谷）が事実上平戸松浦氏の支配下に置かれると、当時佐世保に根強い勢力をもっていた遠藤但馬守は、元亀３年（１５７２）だまし討ちにあう。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.219/21903.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">鼻繰城跡は佐世保重砲大隊の演習場となっていた。</div>
<br>
　遠藤但馬守の娘・白縫姫の物語は、九郎親の求婚を断ったために館を焼かれ、許婚者赤崎伊予守を求めて白蛇に変身するという話である。<br>
「白縫姫の物語と史実は少し違うね。赤崎伊予守は実際は遠藤但馬守の娘婿で、遠藤但馬守の謀叛を九郎親に通報した人物やろ」<br>
「この物語には、平戸松浦氏に屈してしまった赤崎伊予守に、遠藤但馬守と共に佐世保の地を守って欲しかったという『民衆の願い』が込められているのかもしれんね」<br>
　帰路は脇道を下ると、先程の鼻繰り石の上に出た。幹が根元から三つに分かれた楠の大木が佐世保川に枝を伸ばしている。薄曇りの空を透すようにして溢れてくる陽光が、川面にチラチラと照り返していた。<br>
<br>
<div class="clear"></div>]]>
        
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    <title>遠藤但馬守の足跡を訪ねて歩いた</title>
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    <published>2008-01-19T06:32:14Z</published>
    <updated>2008-01-19T06:37:33Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.218/1201.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">吉岡にある遠藤但馬守の石碑</div>
<br>
　弓張岳へと続くヘヤーピンカーブを上って行くと、眼下に佐世保の市街地と港の眺望が広がっていく。空には雲一つなく、空気はどこまでも澄んでいる。弓張岳の下から右へ折れ、但馬越へ向かった。但馬越に着くと前方に但馬神社の鳥居が見えた。鳥居をくぐり、木立の中の急な坂道を上って行った。階段は檜やカシの落ち葉で埋まり、度々滑りそうになる。頂上に着くと、強風で木立がザワザワと鳴っていた。足下には大野谷から佐世保港まで市街地がラッパ状に広がる。
　街から見上げると、奥弓張と将冠岳の中間に三角帽子のように見える山が但馬岳である。現在は奥弓張を但馬岳を呼んでいるが、これは旧海軍が誤って付けた名で、奥弓張は有嶮地岳と呼ばれていた。<br>
　頂上に祀られている小さな石祠には寛延三（１７５０）年の記名があり、これが遠藤但馬守の供養塔である。但馬守の供養塔はこの他市内に数カ所あり、みんな１７５０年前後の江戸中期頃に建立されている。<br>
　佐世保の戦国武将遠藤但馬守は市内各地の地名や白縫姫の悲恋話「蛇島伝説」にその名をとどめており、佐世保に縁の深い人物であったが、その人物像は謎に満ちている。今回はこの謎解きのために、但馬守ゆかりの地を訪ねることにした。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.218/1202.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">くずれかかった石段を登ると、但馬神社がある。</div>
<br>
　但馬越から中里へ下り、竹辺の供養塔を訪れた。県立擁護学校の近く、倉氏の裏の大木の下に、遠藤但馬守の碑はひっそりと祀られていた。ここにはお経が納められた経塚も埋まっていたという。前を流れる小川（今は側溝となっている）付近を「討たれ波江」といい、元亀三（１５７２）年遠藤但馬守が殺された所であると伝えられている。但馬守は飯盛城主九郎親（平戸からの養子）に呼び出され、山本相模、北川龍也によって討ち取られる。<br>
　もう一つの供養塔を訪ねて市道を吉岡町へと向かった。途中には中世からの由緒ある吉岡天満宮や、天満宮の鳥居を中心に東西に並んでいた十三塚の幾つかが今も残っている。この十三塚の上、商業高校の入口あたりを流れる小川が夜討ち川と呼ばれ、この付近も遠藤但馬守が謀殺された場所であるという伝説が残っている。<br>
<br>
 　平戸往還とほぼ平行しながら吉岡団地へと向かった。住宅の間を上って行くと、一段高い所に遠藤但馬守の供養塔が祀られていた。青や黄色の旗が風になびく石段を上ると、武辺のものと同じような形の石碑が立っていた。石碑の中央には遠藤但馬守と刻まれ、その横には寛延二（１７４９）年の年号と中里東漸寺の住職光隆の名が見えた。元々この石碑は現在の場所より80ｍほど下にあったが、住宅地造成の折、現在地に移された。元の石碑の場所を確認した後、相浦川の対岸にある皆瀬牧ノ地を目指した。<br>
　牧ノ地妙観寺あとには、地域の人々が寺屋敷と呼ぶ場所がある。ここには観音堂や中世墓地群が残っている。十数年前に訪れたときは、鬱蒼とした竹林の中に五輪塔や宝筐印塔などがずらりと並んでいたが、今は資源ゴミのリサイクル工場の片隅にひっそりと残っていた。この中で特筆すべきは陀羅尼経の刻んである嘉吉三（１４４３）宝筐印塔である。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.218/1203.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">竹辺にある遠藤但馬の供養塔</div>
<br>
　寺屋敷の少し上の前田さん宅の裏山にも遠藤但馬守ゆかりの石祠が祀ってあり、宝暦五（１７５５）の記銘がある。明治の初頭まで、地元の人々が但馬講と称して酒宴を催したり、これら市内の供養塔に集い、鎮魂祭を行っていたという。<br>
「遠藤但馬守は佐賀の龍造寺へ内通したという理由で殺されたというが本当やろか」<br>
「遠藤但馬守のほかに遠藤千右衛門という人物もいて、同一人物説と別人物説があるね」<br>
　数々の謎を秘めた遠藤但馬守であるが、次回はその謎を解く手掛かりとなる遠藤但馬守ゆかりの山城跡を訪ねることにする。<br>
<br>
<div class="clear"></div>]]>
        
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    <title>相浦谷に残っている武家屋敷</title>
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    <published>2007-12-08T06:29:06Z</published>
    <updated>2007-12-08T06:37:16Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.217/1101.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">　　</div>
　大野から柚木へ向かう旧道を四条橋バス停まで進んで左折し、県道世知原線を上って行った。大野小学校を過ぎたところで一度大きくカ−ブを描き、バス停大野公民館先の赤レンガの塀から右折して路地へ入った。<br>
　小さな墓地を通ると、ツタの絡んだ古い石垣が見えた。石垣の前の畑には、鈴なりの柿の木や白いコスモスの花が揺れている。石垣の内にはソテツも繁っており、南向きで日当たりのよいこの付近は南国的なムードさえ漂う。<br>
　石垣は玄武岩の打ち込みハギ積みで、コの字型に屋敷を囲んでいる。石垣の中央にある石段を上がると、昔ながらの旧家があった。大野谷を見下ろす高台に、どっしりと建つこの屋敷は、旧平戸案の在郷武士・村尾氏宅である。家の造りは敷き台のある玄関を中心に東側が武家造り、西側が農家の構えである。庭は門と玄関を結ぶ線を境にして、右の方は築山や泉水があり、左の方は農作業ができるようになっている。<br>
　母屋は今から約百五十年前の安政五年（１８５８）に、約百両の金をつぎ込んで宮大工が建てたという。あと百年は持つだろうというしっかりした作りである。<br>
「普通は武士というと城下に屋敷を持つ城詰めの侍を想像するけど」<br>
「平戸藩の場合は、田畑を貰って家来に耕させ、これを家祿とする地方給人と呼ばれる侍が多かったごたるよ」<br>
　県道世知原線へ戻って岩下洞穴前まで上り、更に農道を迂回して峰郷へと下りていった。谷間には刈り入れの済んだ田圃にイネのワラ積みが並んである。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.217/1102.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">安政五年に建てられた村尾家は秋の中にたたずむ。</div>
<br>
 　峰公民館の手前で左に進んで行くと、ここにも大きな石垣に囲まれた屋敷があった。屋敷前に建つ碑には「代官所・庄屋屋敷」と刻まれていた。江戸時代、柚木、里美、皆瀬、大野の村々を治めた代官所と、大野庄屋があった所である。<br>
　江戸時代の佐世保地区の村々は、後に合併された宮、世知原、吉井、小佐々を除き、14カ村に分かれていた。これらの村々は、幕末まで中里に置かれていた相神浦郡代の管轄下にあり、数ヶ村に一代官、各村に庄屋とそれを補佐するさす頭と筆取りがいた。<br>
　ここも先の村尾宅と同じで、南向きの相浦川を見下ろす台地にある。江戸時代には、標高百メートル程のこのレベルに生活の基盤があったのだろう。<br>
　再び車道に出て、皆瀬本山を目指した。ＭＲ線のガードを潜ってすぐ右折すると桜田病院である。ここから細い山道を何度もカーブしながら上っていくと、市道八ノ久保線に出る。更に右の折れて上っていくと岳野の集落に出た。稲の切り株の残る田圃に午後の鈍い光が注いでいる。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.217/1103.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">岳野町にある岩崎家は立派な門構えだ。</div>
<br>
　 初めに上手の近藤氏宅を訪れた。まるで城の大手門のような石垣の真ん中にある通路を進んでくと、昔ながらの屋敷が残っていた。近藤家は江戸時代相浦港から石炭を積み出す船を管理をした家柄である。20年程前に訪れたときは、槍などの武具などが残っていた。<br>
　畦道を下り岳野公園まで下りて行った。公園には樹齢数百年の巨大な椎ノ木が聳えていた。幹の中に洞を作る複雑な形をした巨木には、まるで木の霊が住んでいるようである。<br>
<br>
 公園の直ぐ下にもう一つの武家屋敷跡岩崎家があった。前面の大きな堤に抱かれるようにして、玄武岩の石垣が一直線に築かれていた。石垣の上には、昔ながらの白壁と門構えの屋敷があった。門の前に立つとキンモクセイの花がプーンと匂った。この屋敷は二百年近く前に建てられたというが、まだ生活の匂いが残っている。門の扉は当時のものであるというが、丸い鋲はさすがに永い時間の経過を感じさせる。<br>
　堤の湖畔には秋風を受けてコスモスが揺れ、水面には静かにさざ波が立つ。確かにここだけは、数百年前と変わらない、ゆったりとした時が流れているようだ。<br>
<br>
<div class="clear"></div>]]>
        
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    <title>烏帽子は「裂っこ噴出」による火山という説</title>
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    <published>2007-11-09T01:54:06Z</published>
    <updated>2007-11-09T01:55:42Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.216/1001.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">　　</div>
　山手町方面から烏帽子岳を目指した。連続するヘヤーピンカーブを登って行くと、少し緩やかになったところで小さな集落に着いた。<br>
　道脇に車を留め、石垣に囲まれた家々の間を歩いて行くと、開いたばかりのススキが揺れ、トゲの付いた大きな栗の実も落ちていた。９月も末というのに、下界は30度を超える暑さであるが、ここは確実に秋の気配がする。<br>
　ある旧家の表札を見ると、太田性であった。太田道灌の末裔、太田道伴がここに移り住んでから分家を重ねて現在に至ったと伝えられる。確かに今も太田姓が多い。<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.216/1002.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">「美しき天然」の石碑</div>
<br>
　田代の集落から、杉木立の道を抜けて行くと山頂の背後の台地に着いた。大きな看板を左に折れ、「烏帽子高原リゾート・スポーツの里」で車を降りた。今日は木曜日でスポーツの里は休園、訪れる人もなくガランとしている。ここは平成５年に開設されたが、メイン施設の人工スキー場は既に閉鎖された。<br>
　かつてこの付近は緑に覆われた森で、ゴーカートの回る池は西方池と呼ばれ、旧石器時代や縄文時代の石器や土器の出土地であった。<br>
「国のリゾート法に基づく施設とはいえ、複雑は気持ちがするね」<br>
「いっそ元の緑に戻し、市民の憩いの場にするもの一案だね」<br>
　市民の発案により、杉などの人工林の多い烏帽子岳に自然林を甦らせようとする試みが行われている。山手小学校烏帽子分校の前を通り進み、右手の小道を進んで行くと、雑木林の中に高いもので３ｍはあるカシやシイなどの照葉樹林が密集する一角があった。平成14年の佐世保市制１００周年を記念した「百年の森構想」で、多くの市民が手植えをした苗が５年を経過した今、大きく育っているのである。<br>
<br>　
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.216/1003.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">5年たって「百年の森」は立派な照葉樹林となっている。</div>
<br>
 親子堤と青少年の天地を経て山頂へと登って行った。駐車場で車を降りると、白いテントが目に入った。数人が望遠鏡を片手に北の空を観察していた。野鳥の会の人々で、朝鮮半島や中国東北部から東南アジアへと渡るアカハラダカを観察しているのである。ピーク時には一日５千羽程も観察できるという。<br>
　「風と星の広場」の広い緑の広場には大きな玄武岩が並び、星の案内板も立っている。子供の頃にはよく遠足に訪れ、友達と戯れたものである。<br>
　「美しき天然」の碑も昔ながらに残っている。明治32年（１８９９）、佐世保海兵団の軍楽隊長として赴任した田中穂積が、西海の自然に魅せられて武島羽衣の詩に作曲したという。この碑は昭和33年に建立された。<br>
<br><br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.216/1004.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">烏帽子岳の空は秋にアカハラダカが南下するコース。</div>
<br>
山頂に登ると、北側には隠居岳、八天岳、国見の連山が見渡せる。よく見ると、各山の頂はほとんど平たく揃っている。北松浦半島全体が丁度テーブル状の台地になっている。<br>
「尖った形をしている烏帽子岳は昔火山やったとやろか」<br>
　これには二つの説がある。佐賀県黒髪山付近を一大噴火点とする大火山から流れ出た溶岩流によって出来たという説と、地殻の弱い線に沿って何ヶ所からもやわらかい溶岩を噴出する「裂っこ噴出」による火山の一つであるという説である。いずれにせよ数百万年前の話である。<br>
　標高５６８ｍの烏帽子岳の南側斜面は、佐世保市街地まで急斜面である。眼下には佐世保港が広がり、俵ケ浦半島の向こうには、霞に包まれ空との境をなくした海に、九十九島の島影が切り絵のように浮かんでいる。<br>
　帰りはテレビ塔のある方から木風方面へ下りる市道新烏帽子岳線を通った。道路の側面は所々山肌が露出している。鉄分を含んだ火山岩の風化土壌で、ツバツケ石といって子供頃その赤い石片を口に付けで遊んだものである。<br>
<br>
<div class="clear"></div>]]>
        
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    <title>佐世保の市街地は山を崩して出来た</title>
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    <published>2007-10-13T06:09:18Z</published>
    <updated>2007-10-13T06:11:40Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.215/0901.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">　　</div>
　8月最後の日、明治19年の「佐世保市街建設予定図」を手に平戸往還道を歩くことにした。地蔵堂の前に立ち、峰ノ坂を見上げる。山祇町から松川町へと下るだらだら坂は、真ん中に細い階段が刻まれ、アルファストで固められている。江戸時代殿様を乗せた駕籠を担いで登るのは、大変な重労働であったろう。今日は曇り空で、いくぶん気温も下がり涼しい風も吹き下ろしてくる。坂がつきる所に不動尊があり、道は右へと曲がって小佐世保川に架かる松川橋を渡る。<br>
　平戸往還は平戸の殿様が参勤交代のとき通った道で、幅約1.5ｍ程度の道であった。烏帽子岳の山裾に沿ってほぼ一直線に走っている。佐世保旧市内の現在の平地は当時湿地や潟地であり、江戸時代の中頃から少しずつ干拓されていった。そして、明治19年に海軍鎮守府の設置が決定すると、市街化計画によって山々は切り崩され地形は一変した。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.215/0902.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">住居地の跡に楠木だけが残る高天神社の跡。</div>
<br>
　市道小佐世保線を横切り勝富旅館街へと入った。今はホテルや住宅の背後でその位置はつかみにくいが、「予定図」には小高い丘の上に高天神社が記載されている。住宅の間の急な階段を上り神社のあった場所を探すが、新しく建った家々に阻まれてなかなか見つからない。背後に回り込んで石段を上り詰めると草に覆われた小さな空き地があった。神木であった楠の幹が残っており、高天神社跡に間違いないようである。高天町の名の由来となった高天神社は、今はここからすぐ北にある須佐神社に合祀されている。<br>
「高天は天照大神の住む高天原のこと。その高天神社が天照大神の弟である須佐之男命が祀られる須佐神社に遷されたというのも面白いね」<br>
「そいにしても、ここから市街地を眺めていると、市街化される以前の風景が目に浮かんでくるね」<br>
　江戸時代までは、すぐ前の体育文化館から佐世保川沿いの共済病院や親和銀行本店あたりまで、島之地山が聳えていた。この山を切り崩して、道路や商店街が作られていった。いかに大規模な工事であったかが分かる。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.215/0903.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">櫨山から名切町へ降りていくところに平戸往還が残っている。</div>
<br>
　体育文化館横の道路に出てまっすぐに歩いていった。松浦鉄道のガードレール下をくぐり、地方裁判所の裏手へと向かう。小さな石段が残っていて、戦前は旧光園小学校の裏門への道であった。裁判所の庭には平戸往還の松並木があったというが今はない。戦後の一時期、ここにはアメリカンスクールがあった。<br>
　さらに往還は千住内科を通り、医師会館のジムの裏手から中央公園へと下って行く。この一帯はかって櫨山と呼ばれていた。<br>
　中央公園を抜け、宮地獄神社の横へと上がる。ここから道は上下にうねりながら、国道35号とほぼ平行に走る。かなりの坂道なのにあまり疲れない。往還道はまるで人の体と呼吸に合わせて作られているようだ。神社を過ぎると浄土宗九品寺である。十数年前までは赤レンガの塀のある道であったが、今はなく、寺院もモダンな建物に変った。<br>
　小崎坂を下り、谷郷町まで来ると、左手に木造瓦葺きの日本家屋が目に入る。七種医院で、慶応３年（１８６７）、郡代役所が置かれた。ここから往還道を離れて国道筋に出た。国道を横切り、旧県北会館裏のビルの駐車場を訪れた。駐車場の隅には天満神社の祠が祀られていた。「予定図」にも郡代役所から佐世保川へ至る小道の脇に天満神社と記載されている。天満町の名の由来となった神社であるが、戦災で消失してしまった。<br>
　往還道に戻って、西方寺下に出た。ここには鎮守府建設工事で死亡した人夫達の慰霊碑「役夫死者の碑」が立っている。西方寺から水道局の裏手を通り八幡神社の境内に着いた。峰の坂から約１キロ半、過去から現在までの佐世保の歴史が一つ一つ折り重なって見える、時を旅する道であった。<br>
<div class="clear"></div>]]>
        
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    <title>日野の塩づくりと牽牛崎砲台の記憶</title>
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    <published>2007-09-03T02:01:45Z</published>
    <updated>2007-09-03T02:04:06Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.214/0801.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">　　</div>
　鹿子前から県道を相浦町方面へと進み、日野の斎場横へと左折した。ここからは土地の人が砲台道と呼ぶ一本道が牽牛崎へと続いている。現在はアスファルト舗装された登り道であるが、戦前はジャリ道で両側には赤松が植えられていたという。<br>
　砲台跡にできたミニゴルフ場の門の前で車を降りた。梅雨の終わりのどんよりとした曇り空にトビが旋回している。辺りは青々とした草が生い茂り、熱帯雨林を思わせる低木の木立に覆われている。かつてのミニゴルフ場は閉鎖され、高い鉄の門は固く閉ざされていた。<br>
　十数年前にここを訪れたときには、地下要塞を思わせる観測所や兵舎跡を訪れることができたのであるが。牽牛崎砲台は、俵ケ浦の砲台跡と同じように御影石とセメント漆喰でできていた。明治35年に完成し、40cm榴弾砲六門が置かれていたという。<br>
　砲台跡に入るのを断念し、徒歩で牽牛崎下にある海岸へ降りて行った。照葉樹林に覆われた小道を10分ほど歩き小さな入江に着いた。海に洗われた岩々と緑に囲まれた船溜まりを目にしたとき、ここが九十九島の一部であることを改めて実感した。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.214/0802.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">かつては干潟であった大谷の浜に堤防があった。</div>
<br>
　十数年前を思い起こし、海岸を一巡りすることにした。最初に目に入ったのは、草むらの中に埋もれたかってのヒラメの養殖場跡である。今では鉄骨の枠と円形の生け簀が残っているだけだ。養殖場跡を抜けると、大谷の浜に出た。驚いたことに、かつての干潟は消滅し、海岸沿いに高い堤防が築かれていた。堤防の向こうには千畳敷と呼ばれた洗濯板のような海蝕床の先端がわずかに残っているだけである。<br>
「十数年前に来たときは、引き潮で干潟が広がり、江湖（砂浜に出来た川筋）が海へと注いでいたね」<br>
「防災のためとはいえ、九十九島へと注ぐ水の浄化作用もなくなってしまったとやろね」<br>
　ここから海岸沿いに更に進んで行くと、陸上自衛隊の駐屯地がある相浦川の河口に至るのであるが、車を留めてある牽牛崎に戻り、一度日野の市街地に下りて相浦川河口に向かった。<br>
　河口に着き、対岸に大潟新田跡の巨大な堤防を見ながら進む。左手の雑木林の中に水の田尾（みずのと）様があったという。ここが日野塩田を開拓したという、田淵、遠藤、前川、山口などの日野七族の上陸の地と伝えられる。日野七族の人々は、忠臣蔵で有名な瀬戸内海の赤穂尾崎荘の出身で、慶安３年（１６５０）に来て、製塩業を営んだという。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.214/0803.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">新田開発の記憶、白鬚稲荷神社。ここから日野が一望できる。</div>
<br>
　日野七族は頭領尾崎九郎左衛門と共に江戸初期に平戸に来住し、海外貿易に従事し、鎖国令のあとしばらくして日野に来たようである。尾崎九郎左衛門は播磨新田（現佐世保公園とニミッツパーク）を築いた尾崎家の祖先である。中世において松浦党と瀬戸内水軍は密接な関係にあったし、また江戸末期には塩釜用の燃料として石炭が相浦港から瀬戸内各地へ運ばれた。佐世保周辺と瀬戸内とのつながりは深い。<br>
　水の田尾様跡から少し戻り、相浦川左岸にある日野塩田（土肥ノ浦）の樋門跡を確認したあと市街地に出て、塩浜跡を歩いてみた。塩浜は、今の星和台団地の入口通路から共立自動車あたりへと広がり、その北側に塩釜があったようだ。塩釜跡付近を訪ねてみると、住宅地の中に水路がまっすぐ走っていた。塩田の名残りであろう。
　水路の先の小山の上に赤い鳥居が見えた。切り立った山の淵に築かれた階段を上って行くと、白髭稲荷神社に着いた。境内には新田開発の記録が刻まれた石碑も立っていた。<br>
　神社の境内からは、日野の市街地が一望できる。市街地の向こうには近年新しく建った日野中学校が見え、そこから視線を少し右に移すと、相浦川河口の先に九十九島の島影が梅雨空にぼんやりと浮かんでいた。日野にも海の道を通じて運ばれてきた独自の文化があったのだ。
<br>
<div class="clear"></div>]]>
        
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    <title>百四十万人の引揚者の記憶の場所</title>
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    <published>2007-08-08T01:29:36Z</published>
    <updated>2007-08-08T01:35:21Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.213/0701.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">　　</div>
　早朝から降り続く雨が突然やみ、雲の間からギラギラと輝く夏の太陽が顔を出した。浦頭の港に立つと鉛の海の向こうに軍艦が見える。背後の山々は雨に濡れ、深い緑に包まれている。<br>
　20年近く前までは、この付近に検閲所跡の建物の一部が残っていたのであるが、今では船舶関係の工場などが立ち並び、岸壁には遊漁船が係留されている。<br>
　建物の間に、『引揚第一歩の地』と記した高さ３ｍ程の記念碑が立っていた。<br>
　この港には、昭和20年（１９４５）10月から約４年半の間に、中国大陸や南方諸島から百三十九万六千四百六十八人の復員軍人の一般人が、のべ千二百十六隻の船で上陸した。引揚者の多くは栄養失調や引き揚げ時の混乱で、身体が弱り果て、中には引き揚げ船の中で亡くなった人もあったという。苦難の長旅のあとに故郷を踏みしめる引揚者の感慨は、言葉につくせぬものがあったろう。<br>
　引揚者は旧海軍の艦船や米軍のＬＳＴで沖合いまで来て、ハシケで埠頭まで運ばれた。当時を忍ぶため、入り江に突き出しているコンクリートの埠頭まで歩いた。埠頭の突端では、釣り人がノンビリと釣り糸を垂らしていた。桟橋をよく見ると、その一部はそのまま当時の形を残していた。<br>
「戦後60年以上たち、戦争を知る人も少なくなってきているね」<br>
「加藤登紀子や森繁久弥なども上陸しているし、ここはまだ多くの人々の心の現風景として残っていると思うよ」<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.213/0702.jpg" alt="" height="255" width="191" border="0">　　</div>
<br>
　入江の背後の小高い丘の上にある『浦頭引揚記念平和公園』を訪れた。敷地内には記念館とその背後に平和の女神像が聳えていた。いずれも、全国の引揚者からの寄付と市費で昭和61年に完成した。また、近年港を見下ろす場所に、「かえり船」田畑義夫歌碑が建った。<br>
　記念館には、リュック、飯ごう、水筒、軍帽、ＤＤＴの噴霧器などの遺品や、当時の写真が展示されてあった。中でも、ＤＤＴをかけられたあと、休むまもなく７キロの小道を重い足を引きずりながら、針尾海兵団あとの引揚者収容所に向かう家族連れの姿が印象的であった。<br>
　二人もその道をたどるように、ハウステンボスから早岐瀬戸を渡り、瀬戸沿いに南下した。峠を下ったところで右折し、路地を抜けて行くと南風崎駅に着いた。無人の駅に立つと、赤茶けたレールが飴のように伸び、どんよりと曇った空から今にも雨が降り出しそうだ。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.213/0703.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">浦頭の港には、わずかに当時の埠頭が残っている。</div>
<br>
　引揚者たちは、今のハウステンボスの地にあった引揚者収容所で２、３泊したあと、この駅からそれぞれの故郷へと向かった。<br>
　元来た道を戻り、ＪＲハウステンボス駅からハウステンボスへとかかる橋の袂に着いた。この橋はかつて引揚者が渡った橋でもある。ここに海軍兵学校針尾分校の碑が建立されていた。<br>
　ハウステンボスの地はかつて赤子と呼ばれ、江戸時代中期頃新田干拓によってできた。その後昭和19年に針尾海兵団ができ、終戦間際の昭和20年３月に海軍兵学校針尾分校が設置、終戦後には引揚援護局が開設された。更に、昭和25年海上自衛隊の前身、警察予備隊ができ、その後工業団地として再整備された。まさに歴史の荒波に翻弄され続けた佐世保の歴史を象徴している。<br>
　ハウステンボスの中世オランダ風の建物を右手に見ながら、瀬戸沿いを海岸まで進んだ。大きな自然岩で組んだ海岸線から、長い埠頭が伸びている。赤子新田の一丁突き出しの跡を防波堤として再整備してあるようだ。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.213/0704.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">ハウステンボスの端に、赤子新田の一丁突き出しがある。</div>
<br>
　巨大な龍骨のように海に突き出した埠頭の上を歩くと、海風が頬に心地よい。海上から眺めるハウステンボスはすっかり日本の濃い緑に包まれている。埠頭の先端に立つと、まるで西洋と東洋、過去と未来の十字路に立っているような気分になった。<br>
　対岸には瀬戸沿いに茶市の青や白のテントが海面に映えている。空一面に広がる霞が午後の陽光を孕み、風景全体がボーと明るくなった。梅市の頃には雨混じりの曇り空に変わるのであろう。<br>]]>
        
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    <title>昔の市を思わせる「早岐茶市」を歩く</title>
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    <published>2007-07-06T01:27:53Z</published>
    <updated>2007-07-06T01:33:18Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.212/0601.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">　　</div>
　早岐田子ノ浦バス停を過ぎると、早岐瀬戸沿いのガードレールに緑色で「早岐茶市」と染め抜かれた旗が五月の風に揺られていた。そのまま国道を抜け、シルバーボウルの背後に設けられた駐車場に車を停めて、親和銀行早岐支店を目指して歩いた。空は晴れてはいるが、うっすらと霞んでいる。中国からの黄砂の影響もあるようだ。<br>
　東橋を渡り、支店前に並ぶ露店をのぞいてみた。海産物などとともに、既に大梅、小梅、青梅などの梅類も売られていた。今日は５月28日、後市の最終日であるが、来月の７、８、９日からは梅市も開かれる。<br>
　海岸まで出ると、潮と干物の入り混じった不思議な匂いが漂う。早岐茶市はここから観潮橋まで５００ｍ、テント張の露店が通りの両側に４００店ほどずらりと並んでいる。買い物客に混じってテントの下を歩き始めると、「いらっしゃい」という大きな掛け声があちこちから聞こえる。「茶市の風にふかれれば風邪をひかない」と言われ、地元では欠くことのできない季節を告げる風物詩となり、一日約一万五千人の人出で賑わっている。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.212/0602.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">茶市はもともと農産物と海産物の交換市だった。</div>
　露店には、嬉野茶や彼杵茶、世知原茶をはじめ、切り干し大根、干しシイタケ、果物などの農産物、干し魚、コンブ、イリコ、チメンジャコ、ウニ、ワカメなどの海産物が並び、まさに海の幸、山の幸があふれんばかりである。この他、陶器、荒物、竹細工、和菓子など様々で、包丁などを砥石でといでくれる砥ぎ屋さんもいる。<br>
　出店している人々は、市内や大村湾沿岸はもちろん、平戸、五島、佐賀、福岡、遠くは島根からもやって来る。早岐茶市は、「かえまっしょ、かえまっしょ」と海の幸と山の幸を交換する市であったが、今はごく一部で「換えんね」と言って行われるだけである。それでも、市価より安い品物を、さらに値切る客との駆け引きは見ものである。<br>
　早岐茶市は毎年５月の８のつく日を中心に、それぞれ三日間開かれ、それぞれを初市、中市、後市といい、普通は６月の梅市も合わせて、早岐茶市と呼ばれる。<br>
　その起こりは、約四百年前の戦国末期との説もあるが、記録に残る最初のものは、江戸時代の天明八年（一七八八）のことで、旧暦の４月８日、７月８日、12月８日と18日とある。<br>
　この頃は春、夏、冬の、末広がりで縁起がよいとされた八の日に行われた。最盛期の幕末から明治中期の頃には、瀬戸が五、六百艘の船で埋まり、茶市商人の中にはこの市で一年分の暮らしが成り立つ者がいたともいわれる。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.212/0603.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">早岐瀬戸沿いに青いテント張りが並ぶ。</div>
　大正年間になると、５月８日、18日、28日、及び６月８日となっており、現在のもととなる形が出来上がったようだ。<br>
　多く人々と肩ふれ合いながら歩いて行くと、途中でヒジキ、テングサなどの海産物を地面に座ったままの「据え売り」で売る五島からの老婦人に出会った。もう40年もこの市に出店しているという。30年前ごろまでには、五島からの船が海岸に数多く係留されていたというが、今ではその数も減っている。<br>
　一巡りして、茶市風景を対岸から望もうと、観潮橋を渡る。橋の上は相変わらず車が激しく行き交っていた。橋のたもとに小さな空き地があり、鳥居とエビス様の祠が祀ってあった。エビス様は市神さまで、毎年１月20日はエビス講が開かれている。この付近は昭和初年までは名島公園と呼ばれ、料亭などから観潮を楽しんだという。<br>
　ここからは真下の瀬戸の様子が手にとるようにわかる。深緑の静かな海面が、瀬戸に突き出した突堤に近づくにつれ急流となり、外海に吸い込まれるように、白い飛沫を上げながら落ちていく。<br>
　対岸には瀬戸沿いに茶市の青や白のテントが海面に映えている。空一面に広がる霞が午後の陽光を孕み、風景全体がボーと明るくなった。梅市の頃には雨混じりの曇り空に変わるのであろう。<br>
<br>]]>
        
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    <title>山祇神社から木風へ、平戸往還を歩く</title>
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    <published>2007-06-11T06:52:43Z</published>
    <updated>2007-06-11T06:54:26Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.211/0501.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">　　</div>
　うっすらと霞のかかった青空を見上げながら平戸往還峰ノ坂を上って行くと、体内からジワリと汗がにじんできた。だらだら坂を振り返り、街を眺める。山々に囲まれたすり鉢の底のような街の真ん中に高層ビルの姿が目立ってきた。<br>
　山祇バイパスに出る１００ｍほど手前から右へ折れ、下って行くと峰ノ坂児童公園である。ここはかつて陸軍墓地があったところであるが、明治21年（１８８８）、東山の海軍墓地へ移された。楠の大木が聳える小さな公園には、数人の老婦人が憩うだけで、当時の面影を伝えるものは残っていない。二人はもと来た道を引き返し、峰ノ坂を上りきった。<br>
　山祇バイパスを真っ直ぐ進み、少し上ったところに山祇神社がある。神社横は馬宿と呼ばれる江戸時代の役所があったところである。馬宿は馬を乗り継ぐところで、馬宿役人が役所の運営と取り締まりにあたっていた。<br>
　山祇神社の境内に足を踏み入れると、中は椋ノ木、マキノ木、藤などの木立に囲まれ、まさに鎮守の杜である。鳥居の正面の一段高い所に本殿があった。本殿横には岩をくり抜いた手水鉢があり、文久元年の銘が刻まれていた。神社の由来記には元禄５年（１６９２）とある。山祇神社の祭神は大山祇命であるが、元々は山の神で、その歴史はもっと遡るようである。<br>
　石段を下り小さな広場に立つと、椋ノ木の巨木が涼しい木陰を作っている。薄い新緑の葉を陽光が透かし、地面に光の波紋が揺れていた。<br>
　鳥居を潜り境内の外に出て、鳥居脇の古木の根元を見ると旅の神様として知られる猿田彦が祀られていた。旧平戸往還の道筋と、修験者が修行した霊山である烏帽子岳の登山口が交差する位置に建つこの神社には、古来より多くの旅人が訪れたようである。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.211/0502.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">山祇神社には巨樹が繁る。この脇を往還が通る。</div>
　ここから約３ｍ幅の小道を須田尾町方向へと進んでいった。右手に山澄中学校を見ながら歩いて行くと住宅地に入り、その途中に山祇籠立場があった。平戸の殿様行列は、ここで一息入れ、籠を立て、馬を立て直して旅を続けた。馬宿から続く台地上にある籠立場付近には、昔は家も建っておらず、佐世保港が一望のもとに見下ろせたという。<br>
　ここから数十ｍ歩くと分かれ道に来る。この付近が平戸往還道ゆかりの茶屋の原で、真っ直ぐ進めば急な下りの緑坂であるが、左に道をとった。少し進むと道路下にこんもりした林が見え、急勾配の石段が谷の下まで降りている。谷間には何軒か人家があり、左に折れると巨岩に囲まれた場所に出た。<br>
　苔むした岩場には、不動明王やゲタばき地蔵など様々な石仏が安置されている。特に巨岩の上にポツンと乗っている役の行者像が印象的あった。更に進むと風の音に混じって水の音が聞こえてきた。岩の背後に回り込むと、一筋の川が小さな滝となって流れていた。それでも、木風小学校ができる前は水量もかなり豊富で、滝にうたれる人もいたという。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.211/0503.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">木風小の下にひっそりとなる「お滝場」。役行者の石像も。</div>
　小さなせせらぎに沿って谷の入口まで下り、滝の右手にある小道を上って行くと、高さ２ｍ程の薬師如来が鎮座していた。砂岩の一岩彫りで、大正13年の銘があった。当時としては佐世保で最も大きな石像であろう。大正時代と言えば、熊野町や鵜渡越の磨崖仏が思い出される。大正時代の佐世保には一種の霊場ブームが起ったのかもしれない。<br>
　林の中の小道を上って行くと、木風小学校のグランド前に出た。グランドから校舎に上る土手の斜面には、赤白のツツジの花が色鮮やかに咲き誇っていた。校舎の背後には萌えるような新緑に包まれた烏帽子岳が聳え、山々から吹き下ろす薫風が神々の里を渡っていく。<br>
<br>]]>
        
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    <title>鄭成功が台湾に作った二つの城</title>
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    <published>2007-05-07T02:52:49Z</published>
    <updated>2007-05-07T02:58:31Z</updated>
    
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        <![CDATA[<div class="photo_caption_255l">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.210/0401.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">　　</div>
　カーステレオからテレサ・テンの澄んだ歌声が流れる。高雄市から台南市ヘ向かう自動車専用道路の両側には、ヤシやバナナのプランテーションが並び、ウナギの養殖用溜め池もあちこちに設けられている。<br>
　高雄市から約５０ｋｍの台南市までは車で３０分ほどで着いた。自動車専用道路を下り、台南市内に入ると赤、緑、黄色など原色の看板が目に付く。台湾は南に行くほど、街も雑然としてエネルギーに満ちている。髭のような樹根をたらしたガジュマルの巨木が聳える空き地で車を下り、邱温龍、林淑静両氏の案内で、路地道を歩いて行った。家々の壁は漆喰があちこちで剥落している。<br>
　大通りに出て、そのまま進むと右手に狛犬像が立つ門があった。門を抜けると、芝生の向こうに、屋根の端が天に向けて反り返った二階建ての赤い建物が目に入った。この中国式の建物が、赤嵌楼である。その右側には、等身大のブロンズの群像が立っていた。正面が二人の従者を従えた鄭成功で、鄭成功がオランダ総督から政権を受け取る場面が再現されている。<br>
<br>
<div class="clear"></div>
<div class="photo_caption_255r">
<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.210/0402.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0"></div>
　オランダは１５８０年前後から台湾に進出し、赤嵌地方にアジアの中継貿易のための商館を建て、市街地を建設した。そして１６５３年にその本拠地としてプロビンシア城（赤嵌楼）を築いた。現在の中国式の建物は、清朝末期に建てられた海神殿と学問の神様を祀る文昌閣からなり、オランダの建造物跡の上に建設された。建物の背後に回ってみると、四角い発掘現場跡に漆喰で積み上げたレンガ塀が露出していた。<br>
「この風景はどこかで見た気がするね」<br>
「平戸のオランダ商館跡と似とるよ」<br>
　台湾のオランダ東インド会社の施設の一部は、寛永18年（１６４１）に幕府から破棄を命じられた平戸オランダ商館の部材が使われているという。<br>
　建物の周囲に立ち並ぶ石碑や石馬を眺めながら、建物の中に入ると、中にプロビンシア城の模型が展示してあった。当時この城は、安平湾の奥に位置していたが、長崎の出島のように周囲が埋め立てられた。湾口に築かれていたのが、もう一つのオランダ城・ゼーランジャ城である。<br>
　ゼーランジャ城を目指して、安平港方面へと西進した。小さな湖の側に車を留め、４人でそぞろ歩いた。道教式の墓地の横を抜けると、山積にされたパイナップルが甘い香りを漂わせていた。城に入る前に腹ごしらえと、古堡街に並ぶ屋台の一つに入り、麺に魚、焼き飯と台湾料理を頬張った。<br>
　昼食後城内に入ると、爆竹の音と香の匂いで縁日のように華やいでいる。ピラミッドの上部を切り取ったような石積の正面階段を上って行き、記念館に入った。この城跡は、オランダ時代から、鄭成功時代、清朝、日本統治時代という長い歴史を経て今日に至っている。<br>
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<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.210/0403.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">オランダの建造物の上に建てられた「赤嵌楼」</div>
　ゼーランジャ城は、オランダ人によって１６２３年から10年の歳月を経て完成した。当時は星型の石積みの上に赤いオランダ風の建物が立っていたという。現在は身の丈の何倍もある高い城壁や井戸、大砲のほか、発掘によって数々の生活あとが保存されている。<br>
　明朝復興のために清と戦っていた鄭成功は、南京で破れた後、厦門、金門二島を根拠地に、台湾解放を目指した。<br>
　１６６２年、成功は大潮を見計い、大軍をもって安平湾内に侵攻し、オランダ軍を撃退した。その後、成功はプロビンシア（赤嵌）城を承天府とし、ゼーランジャ城を鄭氏の居宅としたが、同年６月に39歳の若さで病死してしまう。<br>
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<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.210/0404.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">ゼーランジャ城（安平古堡）に残る当時のレンガ壁</div>
　城の西には台湾海峡が広がり、その向こうは中国大陸、そしてこの海は成功の故郷平戸へも続いている。彼はどのような思いで波瀾万丈の生涯を閉じたのであろうか。城下にある菜の花畑には、黄色いモンシロチョウが初夏のような暖かい日差しを受けながら飛び交っていた。<br>
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    <title>鄭成功の足跡を辿り平戸から台湾へ</title>
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    <published>2007-03-20T08:07:01Z</published>
    <updated>2007-03-20T08:10:33Z</updated>
    
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<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.209/0301.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">　　</div>

　赤い平戸大橋を渡り、国道３８３号線を市街地に向けて進んで行く。亀岡公園のすぐ前で左に折れると、猶興館高校のグランドである。休日のグラウンドは人影もなくガランとしている。<br>
　グラウンドの片隅にシイの木が立っていた。鄭成功の手植えの木であるという。木の葉にキラキラと照り返す日の光は、もう春の気配がする。ここは平戸の剣術家花房権右衛門の邸宅跡と伝えられ、鄭芝龍・成功親子が剣術を習いにかよったと伝えられる。四百年程前に植えられた木も、昭和23年のグランド整地の際に枯れ、今のものはその別れ木である。そのすぐ傍の石碑には、松浦詮公の詩が刻まれている。<br>
　市街地を抜け、平戸瀬戸沿いの海岸線を南下した。千里ケ浜に着くと海岸に下り、しばし散策した。ヤシの木が並び、２月というのに穏やかな南風が吹く白い砂浜は、なんだか季節感を失ってしまいそうだ。<br>
　遠浅の海は、コバルトブルーから濃い藍色まで光の強さと角度で微妙に変化する。浜の西隅まで歩くと、砂浜にストーンサークルのように大石で半円に囲われている所があり、中には「鄭成功の児誕石」があった。鄭成功の母マツが、貝拾いをしているときににわかに産気づき、この大石にもたれて出産したという。<br>
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<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.209/0302.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">千里ヶ浜にある鄭成功の児誕石。</div>
　車に戻り、岬を迂回するようにして進み、川内浦に着いた。近年、港湾整備されて地形も随分変化してしまったが、17世紀のはじめ頃、岬の麓の海辺付近にオランダ商館があった。当時の平戸は国際都市で、狭い町にオランダ人やイギリス人のほか、中国人も居住しジャンク船で貿易を営んでいたが、海賊的色彩も強かった。その棟梁がかっての王直や李旦であり、その跡を継いだのが鄭芝龍である。鄭芝龍はイギリスやオランダの艦船が入港していた川内浦に１６２２年（元和８年）に入り、居を構えた。当時の川内浦には、華僑社会のようなものが形成されていたようである。芝龍は２年後に田川七左衛門の娘、マツとの間に子を設け、福松と名付けた。後の鄭成功である。<br>
　鄭芝龍は中国明朝に招かれて武官になり海上権を独占した。成功は７歳のとき父に呼び寄せられ、父と共に清と戦い、明の国姓である「朱」を賜った。しかし、芝龍は清朝に屈伏し、母マツも自害した。<br>
　そのあとを継いだ鄭成功は、厦門、金門二島を根拠地に、東シナ海沿岸を抑えて清に抗し続けて、一時は南京にも攻め入ったが、ついに退散した。<br>
　その後１６６１年、オランダ占領下の台湾で、ゼーランジャ（安平）城を攻略し、勝利した。鄭成功が台湾解放の民族的英雄と呼ばれる所以であるが、成功は翌年病死してしまう。<br>
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<img src="http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.209/0303.jpg" alt="" height="191" width="255" border="0">川内浦にある鄭成功の生家跡にはナギの木が残る。</div>
　川内の街中に入ると、通りには昔ながらの格子戸のついた家々が並んでいた。さらに細い路地に入ると、前面に小さなお社があった。小さな階段を上ると境内にナギの木が立っていた。樹齢四百年にはなり、当時からのもののようである。<br>
　裏手に上ると観音堂があった。中に入ると本尊の横に「媽祖像」が千里眼と順風耳の脇仏とともに祀られていた。媽祖像は道教の女神で、航海安全の神様である。中国福建省や台湾の媽祖寺と共通するものがある。<br>
　一度国道に出て丸山を訪れ、港を見下ろす小高い岬の上に登った。カシの木などの雑木林に囲まれた小さな広場に赤いお堂があり、鄭成功が祀られていた。この像は、昭和37年台南市にある「明延平郡王祠」から分霊をうけ、祀ってあるという。７月14日の鄭成功祭（成功の誕生日）には、鄭氏親睦会のグループが毎年台湾から訪れるという。<br>
　南の方角を眺めると、雑木林の間からさざ波立つ海と、沖に点々と係留されている船が見える。この海は遠く中国、台湾まで続いているのだ。鄭成功を訪ねる二人の新たな旅はここから始まる。<br>
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