春の山里に聞こえる鉦や太鼓の木場浮立


 4月の第1日曜日は木場浮立が年に一度現地で公開される日である。久々に浮立を見ようと、浮立の里上木場へと向かった。黒髪町の新興住宅街を抜け、烏帽子岳の東側急斜面に広がる棚田の間を上って行くと、台地上に広がる小さな集落に着いた。
 木場児童公園下で車を降ると、眼下に天神山や赤崎岳、弓張岳に囲まれた佐世保港が春霞の中に浮かんで見える。背後は木場山から下りる斜面が屏風のように聳えている。緑の山の端に空の青が映え、ヒバリの囀りやウグイスの声が聞こえてくる。まるで桃源郷である。
 今日の会場となる公園のグラウンドの桜は今が満開である。まず、グラウンドの一段上にある木場浮立研修所を訪れた。研修所からはちょうど浮立を舞う地元の人々が出てくるところであった。赤や黒の衣装が鮮やかである。研修所では浮立の稽古が毎週行われ、代々口伝えに手取り足取りで教えられている。元来は男性だけで演じられていたが、後継者不足で、近年では女性や子供も加わっている。

木場の台地から眺める日宇地区。

 木場浮立は今から二百年以上前に、有田町竜泉寺から横手をへて伝えられたと言われ、雨乞いや豊年祝いとして演ぜられてきた。「囃子」、「舞」、「行列」の三つで構成されたものは珍しく、長崎県の無形文化財に指定されている。
 グラウンドに下りると既に大勢の観客が集っていた。午後2時、浮立の里に笛の音が響き、鉦の音がこだますといよいよ浮立の始まりである。
 まず最初は、「大名行列」である。先頭は5人の子供たちによる鉄砲隊、続いて、抜き足差し足で進む毛槍の行列、そのあとを七つの鉦、笛、太鼓など次々と登場する。このうち地囃しは、締太鼓を四個上に向けて連ね、赤い着物に、五色の色紙をつけた女性たちが、小バチで打つ。道中踊りは、「提灯持ち」が二人一組で、後を振り向き、首を振るなど面白い所作で交代する。また鎧武者の「薙刀踊り」もあった。
 木場名物の獅子舞は、黒法被、黒脚絆、わらじ姿の男が竹のササラをシャッシャッと鳴らしながら獅子を先導する。獅子の中には大人が頭と尻に二人入っている。そのしぐさと大きな目がなんともユーモラスである。以前は田んぼの畦道を進んで来たという。

木場浮立は大名行列を模してあるようだ。

 シンガリが登場する頃には、行列はグラウンドを半周するほどの長さになった。「行列」が一回りすると、グラウンドの中央にゴザが敷かれ、「舞」に移る。ゴサの上には子供たちが座り、笛に合わせて可愛い仕種で鉦をたたく。
 木場浮立の「舞」は七つの演目からなる。初めの三番叟は、祝いの舞で、男が長烏帽子をかぶり、袴をつけ、花模様の長袖きものに十字のたすきがけで、小太鼓4個のはやしで舞う。三方見世は幼女が三宝という器物を取り出し、踊ったことに由来している。今年は11歳の少女が、鳳凰の鳥とヨータラと呼ばれる玉飾りの付いた冠をかぶり、太鼓をたたき舞った。玄藩も雨乞いの踊りで、白衣に袴の男が、長いシカの角のような二つの色紙の房を付け、頭を大きく振りながら舞う。
 さらに「舞」は、岡崎、追い回し、と続き、最後は江戸浮立である。江戸浮立は、黒法被をつけた二人が、大太鼓の両面を豪壮に打ち鳴らした。この後獅子舞が再度登場し、浮立は幕を閉じた。
「木場浮立のもととなる竜泉寺浮立は、時の住職が弘法大師の雨ごいの秘法に基づいて祈願し、考え出したとの説もあるね」
「雨乞いや豊年祝いとして始まったから、もともとは夏か秋に行われたとやろね」

 桜吹雪が舞う中、帰り支度をする人々を見ていると祭りの後の一抹の寂しさが残る。しかし、ピーヒャラドン、ピーヒャラドンとなつかしい日本の音色を聞き、ゆったりとした踊りを眺めていたおかげで、身も心もなごみ緩んだ。今日は一年で一番のハレの日であった。
掲載日:2008年05月30日