フロイスの「日本史」に書かれた針尾伊賀守の城跡


  針尾島を縦断する国道202号を西海橋方向へと進んだ。針尾地区公民館を過ぎたところで右折し、針尾無線塔方向へと続くミカン畑の小道をぐるりと回り込みながら下りて行くと小さな港に着いた。ここが小鯛浦である。
 公園の前に車を留めて歩き始めた。港は四方を山に囲まれ、湖と間違えそうである。港に係留された白い小舟が、瀬戸から寄せる波に揺られてパチャパチャと音を立てている。ハクモクレンや桃の花が満開で春爛漫である。
 海岸沿いに立つ造船所や民家の前を通って針尾城へと向かった。針尾城の背後に回り込むようにして小道を上って行くと、真っ赤なツバキの落ち花が道々を飾っていた。城跡に入ると、土塁と空堀の中に木の枝を並べた階段が残っていた。平成16年の発掘で取り付けられたものである。本丸跡に入ると高い木立の上をカラスが飛び交っていた。どうやら近くのミカン畑に捨てられたミカンをここでついばんでいるらしい。発掘のときに出てきた建物の柱穴の跡や大手の位置などを確認しながら本丸跡を歩いた。針尾城は中世の山城で、二重の土塁が半円を描いている。前面は崖で、城全体が港に対面した構えになっており、東西80m、南北60m程の広さである。
「針尾城は、ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが書いた『日本史』に登場するよね」
「佐世保の城が世界史の舞台に登場するのはすごかよね」
 『日本史』には、針尾城は針尾伊賀守の城として、「大村の海が極めて潮の流れ激しく奔走する海域のそばに城を構えていた」とある。

針尾城跡の一画にある古い五重塔。

  また発掘調査の結果、城跡からは、12世紀〜16世紀の中国や朝鮮半島、タイ産などの輸入陶磁器、また備前などの国内産の陶磁器が出土し、広く国内外と交易していたことが分かった。このほか、硯や茶臼のなどの石器、鉄砲の弾を作る坩堝なども出土した。
 中でも、16世紀頃の中国・景徳鎮窯の六角脚付瓶は、トルコ、イタリアに次ぐ世界で3例目という貴重なものであった。恐らくポルトガル貿易によるものであろう。
 針尾氏は、松浦党と同じように経済基盤を漁業においていたようであるが、時に海賊行為を働いて、倭寇と恐れられていた。
 針尾伊賀守が世界史の表舞台の登場するのは、永禄6年(1563)に起きた「横瀬浦襲撃事件」である。伊賀守は、大村領内にあった横瀬浦を監督をする奉行をしていたが、キリシタン大名の大村純忠に叛いて、武雄の後藤貴明と結託し、横瀬浦にいたイエズス会の宣教師たちと純忠の暗殺を計画した。計画は失敗に終わったたが、横瀬浦は焼け落ちてしまう。

針尾城跡は二重の空掘が今も残っている。

  針尾島東部は、当初先住民の佐志方氏の勢力下にあった。一時は針尾氏が全島を治めた時期もあったが、元亀3年(1572)に伊賀守の子・針尾三郎左衛門が平戸松浦氏に滅ばされ、針尾島での勢力を失ってしまう。
 深さ2mもある空堀など城跡を一巡した後、港まで下りて、瀬戸が一望できる所まで歩いた。近くで見ると瀬戸の流れはやはり早い。右手の岬の向こうは横瀬浦、左手は西海橋である。

針尾伊賀守はこの針尾瀬戸を支配していた。

  横横瀬浦襲撃事件の様子などを語り合いながら再び浦へと戻り、対岸の林へ一直線に伸びる神社の階段を上った。鳥居を潜ると小さな境内に出た。戸御崎神社は、江戸時代までは祇園社といい、天台宗祇園寺の境内にある神仏習合の神社であった。第2鳥居には平安時代末期の延久三年(1071)の銘がある。
 「東彼杵神社明細帳」には、祭神は蘇民(中国人)招来の船に乗り、鯛ノ浦から小鯛に着いたとある。また、古くから小鯛浦で造船所を営んでいる松永家には船神の祀り方に関する文書が残っている。
 港から吹き上げる春の風が、潮の香りを運んで来る。陽光を受けてキラキラとさざ波立つ小鯛の海は、確かに古の昔から海外へと開けていたのである。

掲載日:2008年05月10日