矢峰あたりに残る男と女の神様の話

「幸神神社」は塞の神。

 国道498号を大野から柚木方向へと上って行き、泉福寺付近に差しかかると高層アパート群が目に入る。この付近には近年大型スーパーマーケットやドラッグストアー、衣料店などち並び、風景が一変した。大河停先のバイキングスタイルの食堂で昼食を取った後、近辺を散策することにした。数日続いた寒波も去り、久しぶりにおだやかな日和となった。
 国道を渡って少し歩くと、真新しいシメ縄が掲げられた鳥居があった。淀姫神社の大シメ縄である。ここから、十数メートル先で右に90度転じた所にもう一つの鳥居があった。この鳥居の柱は少し地中に埋まっており、ちょうど人の背の高さと同じくらいである。額には淀姫大明神とあり、恐らく江戸時代のものであろう。鳥居を潜って進むと相浦川を背にして社殿が立っていた。
 淀姫神社は松原町と矢峰町の鎮守神で、祭神は、海の神・大綿津見神の娘豊玉姫命である。淀姫神社では毎年1月26日にヤモード神事が行われる。松原、矢峰両町が、それぞれ一本ずつ大縄をない、それらを合わせて一本の大シメ縄を作る。この後、昔は二人のヤモード(両町から選ばれた若者)が相浦川に飛び込んでミソギを行っていたが、現在は山中の堤で行っている。ミソギをすませたヤモードたちは鳥居に登り、六百キロ程もある大シメ縄を町民とともに架ける。
 「北松浦神社明細帳」によると、淀姫神社の創建は平安時代の長和2年(1013)とある。相浦谷開拓が進み、相浦からこの地に及んだとき、竹辺大宮姫神社の分霊を祀ったとの説もある。
 境内を一回りした後、再び国道を矢峰営業所まで進み、道脇に立つ六地蔵を見つけた。二十数年前に訪れたときは、道路の反対側にあり、その昔は更に小川の土手の上にあったという。

大野の淀姫神社の大シメ縄ヤモード神事が今に残る。

 六体の地蔵さんの下の竿(柱)の部分に、延命地蔵と共に「預修 玉林宗金尊位」の文字が刻まれており、松浦16代宗金親の供養塔である。弘治元年(1555)の銘もあり、親が58歳のときのことである。
 16代親は波瀾万丈の人生を送った人物である。明応7年(1498)の大智庵城落城の際に、平戸松浦氏の人質となるが、その後旧家臣団によって救出され、相浦飯盛城を築く。これより、少弐氏や有馬氏などの戦国大名から次々と養子を迎え勢力維持に努めるが、二度にわたる飯盛城攻めで、ついには平戸松浦氏の支配下に置かれてしまう。騒乱と策略の中で、明日をも知れぬ身から、生前親は相浦谷の各地に同じような供養塔などを建てている。

国道脇に立つ六地蔵尊(ろくんぞさん)

 国道を横切り、小川沿いに上って行くと、矢峰公民館下に幸神神社があった。塞(幸)の神は、男女の縁結びの神様であるとともに、村境に立つ道祖神として、外敵や災いを防ぐ神様である。お堂の中のご神体は自然石であるが、この神社と六地蔵の脇にあった男女神とは関係があるのかも知れない。
 お堂の上を見上げると、丘の先端に墓碑が見えた。登ってみると五輪塔や板碑等の中世墓碑が並んでおり、寺院の跡のようである。下の六地蔵もここと関係があるのかもしれない。ここからは大野川(相浦川)流域の町並みが一望できる。澄み渡った青空に、午後の日差しが心地よい。墓碑群の横に立つクロガネモチノキの赤い実をヒヨドリがついばんでいた。
 矢峰から小舟地区へと、棚田の中の曲がりくねった道を一気にかけ登った。山の中腹に開けた台地状に開けた高台が矢峰の名の由来である。

かつて矢峰の台地には、古い寺があったようだ。

  小舟地区の東、矢峰町との境に二つの堤があった。岳田池と岳下池である。以前来たときにはバス釣りの小船が浮かんでいたが、渇水のせいか池の水も少なく、池の回りには柵がしてあった。それでも、この付近には古い石垣のある農家が点在し、下界とは別世界の静かな村里風景である。池の横の畑には、春を告げる紅梅の蕾が膨らみ始め、あたり一面に芳しい匂いを漂わせていた。

掲載日:2008年04月11日