早起きして、朝市に行ってみんね

 

午前6時前に目を覚まし、万津町の朝市会場へと向かった。日の出前の国道35号はまだ暗い。戸尾交差点を折して国道384号を直進し、更に旧水上交番を左折すると、オレンジ色の水銀灯が前方の近海航路用の新みなとターミナルビルをほのかに照らし出している。
 埋め立て地から右折し、旧万津ターミナルビルの前を直進して朝市会場に着いた。佐世保川尻の船着場と背中合わせの朝市現場の周囲には、荷物を運び入れる車と利用者の車がズラリと並んでいる。今日1月10日は年に一度のぜんざい会が開かれる日であった。車の外に出ると冷気が身にしみる。
 屋根付きの朝市会場では、それぞれのコーナーにはおばさんたちが陣取って、とれたての魚や、野菜、果物、干し物のほか一般の食料品や雑貨まで並べられている。中には、炭火を囲んでサザエなどを焼く人々もいて、こおばしい潮の香りがした。会場の3ヵ所に大鍋が置かれ、利用者にぜんざいがふるまわれていた。白い息をたてながら食べる甘いぜんざいとホカホカの餅がすきっ腹にしみ込んだ。今日のお客は主婦は勿論のこと料理屋の板前さん、小売業者のほか、ぜんざい目当ての市民や観光客もいるようである。

  

「十数年前に来たときはもっと活気があったようだけど」
「河岸に係留されている近海からの小型船の数も以前ほどではないね」
 平成9年に対岸にあった魚市場が相浦に移転したのが大きく響いているようだ。また、大形スーパーやコンビニなどが増え、消費者の趣向も変わってきている。しかし、毎日生産者から直接提供される、新鮮な魚や野菜が手に入る場所は日本中探してもなかなかないのではなかろうか。

朝市の歴史は古く、戦前、今のアルバカーキ橋付近の湊町の川沿いに自然発生的に始まったという。戦後は旧水上警察の裏と海岸通りで開かれていたが、交通の妨げになるなどの理由で、昭和46年7月に現在の場所に移転した。朝市は午前3時頃から午前9時まで開かれ、その後は市営駐車となる。ぜんざい会もことしで37回を迎えた。
 佐世保の市場の歴史はさらに古く、明治19年に海軍鎮守府の設置が決定されると、明治21年には大村湾水産組合が設置された。その後、青果市場が大正8年、魚市場が大正9年に市営化された。全国で最初に中央卸売市場を開設した京都市は、その開設にあたり、大正13年に佐世保の市営市場を視察した。


  

旬の野菜の香りをかぎながら会場を歩き始めると、常連客の「百円まけてくれんね」というかけ声も聞こえる。一巡りして外に出ると、日の出とともにあたりはすっかり明るくなっていた。万津町から塩浜町へと抜ける路地に入ると、昔ながらのコンニャク屋、仕出し寿司屋なども早朝から開店していた。
 路地を抜けると旧海岸通りである。前面にはポートルネッサンス21計画の埋め立て地に雑草が繁っていた。以前ここは魚市場の入江の小さな海岸で、朝市が開かれていた所である。青空市場、海岸市場の愛称で親しまれていた。岸壁には漁船が係留され、ウォーターポリスと英語で書かれた水上警察の小型船も波に揺れていたが、今はない。周辺は新しいビルや施設、高速道路などが建設され、潮の香りがしなくなった。この場所は今市民を巻き込んで新しい計画案が論議されているが、どのように変化していくのであろうか。
 「あの角に以前は野菜や果物の据え売りをしていたおばさんたちがいたよね」などと話ながら、通りに面した赤いノレンの食堂に入った。ここは船員さんなどのために早朝から開店している。大盛りのご飯に、味噌汁、魚、ノリなどの朝飯を格安で食べることができる。この時代に朝食を売りの目玉に経営されている店が残っていることに、港佐世保もまだまだ健在なのだと、なんとなく安堵した。

掲載日:2008年03月05日