遠藤但馬守の城跡は街中にある

 

 年の瀬を迎える頃、八幡神社の裏手から佐世保城跡へと、曲がりくねった細い路地を上って行く。路地が終わる手前で左に折れ、急な階段を上り詰めた所から更に少し左手に進むと、大きな倒木が道を塞いでいた。大木を潜り抜け歩いて行くと、尾根に鋭く切り込まれた切り通しに出た。眼下には宮田・俵町の市街地が広がり、住宅がすぐ足元まで迫っている。
 人の倍の高さもあるこの切り通しは、佐世保城の堀切の跡である。これを境に右手が出丸跡、左手が本丸跡である。左手の岩場をよじ登り、雑木林を抜けると、崖の淵に鉄柵が伸びていた。斜面は急傾斜地崩壊対策工事で削り取られ、コンクリート造成されている。鉄柵沿いに進みながら、以前あった土橋がほとんど確認できないことに気づいた。
 本丸跡を10数年前に訪れたときには、直径30m程の本丸の回りには土塁がめぐらされ、所々石積みで補強されていたが、近年の造成工事でかなり削り取られてしまっている。  本丸跡の先には両側に犬走りと呼ばれる土の回廊もある。城跡の先端は新しい畑ができてかなり変化していた。標高約70mの城の回りは市街地まで断崖絶壁で、攻め落とすのは不可能に近い。佐世保城は守りのための城である。

切り通しは佐世保城の堀切の跡と思われる。

 帰りは中央の堀切から宮田町の市街地へと急勾配の石段を一直線に下りて行った。国道と佐世保川を渡り、保立公園の麓の川畔に祀られる鼻繰り石を訪れた。槇と山茶花の木の下に、直径50m程の楕円形のひらたい石の中がくり抜かれており、鼻繰の名の由来ともいわれる。鼻繰城跡がある保立公園は、戦前佐世保重砲大隊が演習場に使っていたもので、その削平工事でかなりの部分が破壊されている。現在は僅かに周辺部に土塁や石積の一部と思われるものが残っているだけである。
 一体遠藤但馬守とはどのような人物であろうか。「遠藤氏系図」によれば、遠藤但馬守は平戸南部大川原の出で、飯盛城攻防戦の時の宗家松浦氏と平戸松浦氏との仲介役として登場する。しかしその後、平戸からの養子九郎親を飯盛城へ迎えるという条件のもと和睦が成立し、相神浦(相浦谷)が事実上平戸松浦氏の支配下に置かれると、当時佐世保に根強い勢力をもっていた遠藤但馬守は、元亀3年(1572)だまし討ちにあう。

鼻繰城跡は佐世保重砲大隊の演習場となっていた。

 遠藤但馬守の娘・白縫姫の物語は、九郎親の求婚を断ったために館を焼かれ、許婚者赤崎伊予守を求めて白蛇に変身するという話である。
「白縫姫の物語と史実は少し違うね。赤崎伊予守は実際は遠藤但馬守の娘婿で、遠藤但馬守の謀叛を九郎親に通報した人物やろ」
「この物語には、平戸松浦氏に屈してしまった赤崎伊予守に、遠藤但馬守と共に佐世保の地を守って欲しかったという『民衆の願い』が込められているのかもしれんね」
 帰路は脇道を下ると、先程の鼻繰り石の上に出た。幹が根元から三つに分かれた楠の大木が佐世保川に枝を伸ばしている。薄曇りの空を透すようにして溢れてくる陽光が、川面にチラチラと照り返していた。

掲載日:2008年02月06日