遠藤但馬守の足跡を訪ねて歩いた

吉岡にある遠藤但馬守の石碑

 弓張岳へと続くヘヤーピンカーブを上って行くと、眼下に佐世保の市街地と港の眺望が広がっていく。空には雲一つなく、空気はどこまでも澄んでいる。弓張岳の下から右へ折れ、但馬越へ向かった。但馬越に着くと前方に但馬神社の鳥居が見えた。鳥居をくぐり、木立の中の急な坂道を上って行った。階段は檜やカシの落ち葉で埋まり、度々滑りそうになる。頂上に着くと、強風で木立がザワザワと鳴っていた。足下には大野谷から佐世保港まで市街地がラッパ状に広がる。  街から見上げると、奥弓張と将冠岳の中間に三角帽子のように見える山が但馬岳である。現在は奥弓張を但馬岳を呼んでいるが、これは旧海軍が誤って付けた名で、奥弓張は有嶮地岳と呼ばれていた。
 頂上に祀られている小さな石祠には寛延三(1750)年の記名があり、これが遠藤但馬守の供養塔である。但馬守の供養塔はこの他市内に数カ所あり、みんな1750年前後の江戸中期頃に建立されている。
 佐世保の戦国武将遠藤但馬守は市内各地の地名や白縫姫の悲恋話「蛇島伝説」にその名をとどめており、佐世保に縁の深い人物であったが、その人物像は謎に満ちている。今回はこの謎解きのために、但馬守ゆかりの地を訪ねることにした。

くずれかかった石段を登ると、但馬神社がある。

 但馬越から中里へ下り、竹辺の供養塔を訪れた。県立擁護学校の近く、倉氏の裏の大木の下に、遠藤但馬守の碑はひっそりと祀られていた。ここにはお経が納められた経塚も埋まっていたという。前を流れる小川(今は側溝となっている)付近を「討たれ波江」といい、元亀三(1572)年遠藤但馬守が殺された所であると伝えられている。但馬守は飯盛城主九郎親(平戸からの養子)に呼び出され、山本相模、北川龍也によって討ち取られる。
 もう一つの供養塔を訪ねて市道を吉岡町へと向かった。途中には中世からの由緒ある吉岡天満宮や、天満宮の鳥居を中心に東西に並んでいた十三塚の幾つかが今も残っている。この十三塚の上、商業高校の入口あたりを流れる小川が夜討ち川と呼ばれ、この付近も遠藤但馬守が謀殺された場所であるという伝説が残っている。

 平戸往還とほぼ平行しながら吉岡団地へと向かった。住宅の間を上って行くと、一段高い所に遠藤但馬守の供養塔が祀られていた。青や黄色の旗が風になびく石段を上ると、武辺のものと同じような形の石碑が立っていた。石碑の中央には遠藤但馬守と刻まれ、その横には寛延二(1749)年の年号と中里東漸寺の住職光隆の名が見えた。元々この石碑は現在の場所より80mほど下にあったが、住宅地造成の折、現在地に移された。元の石碑の場所を確認した後、相浦川の対岸にある皆瀬牧ノ地を目指した。
 牧ノ地妙観寺あとには、地域の人々が寺屋敷と呼ぶ場所がある。ここには観音堂や中世墓地群が残っている。十数年前に訪れたときは、鬱蒼とした竹林の中に五輪塔や宝筐印塔などがずらりと並んでいたが、今は資源ゴミのリサイクル工場の片隅にひっそりと残っていた。この中で特筆すべきは陀羅尼経の刻んである嘉吉三(1443)宝筐印塔である。

竹辺にある遠藤但馬の供養塔

 寺屋敷の少し上の前田さん宅の裏山にも遠藤但馬守ゆかりの石祠が祀ってあり、宝暦五(1755)の記銘がある。明治の初頭まで、地元の人々が但馬講と称して酒宴を催したり、これら市内の供養塔に集い、鎮魂祭を行っていたという。
「遠藤但馬守は佐賀の龍造寺へ内通したという理由で殺されたというが本当やろか」
「遠藤但馬守のほかに遠藤千右衛門という人物もいて、同一人物説と別人物説があるね」
 数々の謎を秘めた遠藤但馬守であるが、次回はその謎を解く手掛かりとなる遠藤但馬守ゆかりの山城跡を訪ねることにする。

掲載日:2008年01月19日