相浦谷に残っている武家屋敷

  
 大野から柚木へ向かう旧道を四条橋バス停まで進んで左折し、県道世知原線を上って行った。大野小学校を過ぎたところで一度大きくカ−ブを描き、バス停大野公民館先の赤レンガの塀から右折して路地へ入った。
 小さな墓地を通ると、ツタの絡んだ古い石垣が見えた。石垣の前の畑には、鈴なりの柿の木や白いコスモスの花が揺れている。石垣の内にはソテツも繁っており、南向きで日当たりのよいこの付近は南国的なムードさえ漂う。
 石垣は玄武岩の打ち込みハギ積みで、コの字型に屋敷を囲んでいる。石垣の中央にある石段を上がると、昔ながらの旧家があった。大野谷を見下ろす高台に、どっしりと建つこの屋敷は、旧平戸案の在郷武士・村尾氏宅である。家の造りは敷き台のある玄関を中心に東側が武家造り、西側が農家の構えである。庭は門と玄関を結ぶ線を境にして、右の方は築山や泉水があり、左の方は農作業ができるようになっている。
 母屋は今から約百五十年前の安政五年(1858)に、約百両の金をつぎ込んで宮大工が建てたという。あと百年は持つだろうというしっかりした作りである。
「普通は武士というと城下に屋敷を持つ城詰めの侍を想像するけど」
「平戸藩の場合は、田畑を貰って家来に耕させ、これを家祿とする地方給人と呼ばれる侍が多かったごたるよ」
 県道世知原線へ戻って岩下洞穴前まで上り、更に農道を迂回して峰郷へと下りていった。谷間には刈り入れの済んだ田圃にイネのワラ積みが並んである。

安政五年に建てられた村尾家は秋の中にたたずむ。

 峰公民館の手前で左に進んで行くと、ここにも大きな石垣に囲まれた屋敷があった。屋敷前に建つ碑には「代官所・庄屋屋敷」と刻まれていた。江戸時代、柚木、里美、皆瀬、大野の村々を治めた代官所と、大野庄屋があった所である。
 江戸時代の佐世保地区の村々は、後に合併された宮、世知原、吉井、小佐々を除き、14カ村に分かれていた。これらの村々は、幕末まで中里に置かれていた相神浦郡代の管轄下にあり、数ヶ村に一代官、各村に庄屋とそれを補佐するさす頭と筆取りがいた。
 ここも先の村尾宅と同じで、南向きの相浦川を見下ろす台地にある。江戸時代には、標高百メートル程のこのレベルに生活の基盤があったのだろう。
 再び車道に出て、皆瀬本山を目指した。MR線のガードを潜ってすぐ右折すると桜田病院である。ここから細い山道を何度もカーブしながら上っていくと、市道八ノ久保線に出る。更に右の折れて上っていくと岳野の集落に出た。稲の切り株の残る田圃に午後の鈍い光が注いでいる。

岳野町にある岩崎家は立派な門構えだ。

  初めに上手の近藤氏宅を訪れた。まるで城の大手門のような石垣の真ん中にある通路を進んでくと、昔ながらの屋敷が残っていた。近藤家は江戸時代相浦港から石炭を積み出す船を管理をした家柄である。20年程前に訪れたときは、槍などの武具などが残っていた。
 畦道を下り岳野公園まで下りて行った。公園には樹齢数百年の巨大な椎ノ木が聳えていた。幹の中に洞を作る複雑な形をした巨木には、まるで木の霊が住んでいるようである。

公園の直ぐ下にもう一つの武家屋敷跡岩崎家があった。前面の大きな堤に抱かれるようにして、玄武岩の石垣が一直線に築かれていた。石垣の上には、昔ながらの白壁と門構えの屋敷があった。門の前に立つとキンモクセイの花がプーンと匂った。この屋敷は二百年近く前に建てられたというが、まだ生活の匂いが残っている。門の扉は当時のものであるというが、丸い鋲はさすがに永い時間の経過を感じさせる。
 堤の湖畔には秋風を受けてコスモスが揺れ、水面には静かにさざ波が立つ。確かにここだけは、数百年前と変わらない、ゆったりとした時が流れているようだ。

掲載日:2007年12月08日