烏帽子は「裂っこ噴出」による火山という説

  
 山手町方面から烏帽子岳を目指した。連続するヘヤーピンカーブを登って行くと、少し緩やかになったところで小さな集落に着いた。
 道脇に車を留め、石垣に囲まれた家々の間を歩いて行くと、開いたばかりのススキが揺れ、トゲの付いた大きな栗の実も落ちていた。9月も末というのに、下界は30度を超える暑さであるが、ここは確実に秋の気配がする。
 ある旧家の表札を見ると、太田性であった。太田道灌の末裔、太田道伴がここに移り住んでから分家を重ねて現在に至ったと伝えられる。確かに今も太田姓が多い。
「美しき天然」の石碑

 田代の集落から、杉木立の道を抜けて行くと山頂の背後の台地に着いた。大きな看板を左に折れ、「烏帽子高原リゾート・スポーツの里」で車を降りた。今日は木曜日でスポーツの里は休園、訪れる人もなくガランとしている。ここは平成5年に開設されたが、メイン施設の人工スキー場は既に閉鎖された。
 かつてこの付近は緑に覆われた森で、ゴーカートの回る池は西方池と呼ばれ、旧石器時代や縄文時代の石器や土器の出土地であった。
「国のリゾート法に基づく施設とはいえ、複雑は気持ちがするね」
「いっそ元の緑に戻し、市民の憩いの場にするもの一案だね」
 市民の発案により、杉などの人工林の多い烏帽子岳に自然林を甦らせようとする試みが行われている。山手小学校烏帽子分校の前を通り進み、右手の小道を進んで行くと、雑木林の中に高いもので3mはあるカシやシイなどの照葉樹林が密集する一角があった。平成14年の佐世保市制100周年を記念した「百年の森構想」で、多くの市民が手植えをした苗が5年を経過した今、大きく育っているのである。

 
5年たって「百年の森」は立派な照葉樹林となっている。

親子堤と青少年の天地を経て山頂へと登って行った。駐車場で車を降りると、白いテントが目に入った。数人が望遠鏡を片手に北の空を観察していた。野鳥の会の人々で、朝鮮半島や中国東北部から東南アジアへと渡るアカハラダカを観察しているのである。ピーク時には一日5千羽程も観察できるという。
 「風と星の広場」の広い緑の広場には大きな玄武岩が並び、星の案内板も立っている。子供の頃にはよく遠足に訪れ、友達と戯れたものである。
 「美しき天然」の碑も昔ながらに残っている。明治32年(1899)、佐世保海兵団の軍楽隊長として赴任した田中穂積が、西海の自然に魅せられて武島羽衣の詩に作曲したという。この碑は昭和33年に建立された。


烏帽子岳の空は秋にアカハラダカが南下するコース。

山頂に登ると、北側には隠居岳、八天岳、国見の連山が見渡せる。よく見ると、各山の頂はほとんど平たく揃っている。北松浦半島全体が丁度テーブル状の台地になっている。
「尖った形をしている烏帽子岳は昔火山やったとやろか」
 これには二つの説がある。佐賀県黒髪山付近を一大噴火点とする大火山から流れ出た溶岩流によって出来たという説と、地殻の弱い線に沿って何ヶ所からもやわらかい溶岩を噴出する「裂っこ噴出」による火山の一つであるという説である。いずれにせよ数百万年前の話である。
 標高568mの烏帽子岳の南側斜面は、佐世保市街地まで急斜面である。眼下には佐世保港が広がり、俵ケ浦半島の向こうには、霞に包まれ空との境をなくした海に、九十九島の島影が切り絵のように浮かんでいる。
 帰りはテレビ塔のある方から木風方面へ下りる市道新烏帽子岳線を通った。道路の側面は所々山肌が露出している。鉄分を含んだ火山岩の風化土壌で、ツバツケ石といって子供頃その赤い石片を口に付けで遊んだものである。

掲載日:2007年11月09日