佐世保の市街地は山を崩して出来た

  
 8月最後の日、明治19年の「佐世保市街建設予定図」を手に平戸往還道を歩くことにした。地蔵堂の前に立ち、峰ノ坂を見上げる。山祇町から松川町へと下るだらだら坂は、真ん中に細い階段が刻まれ、アルファストで固められている。江戸時代殿様を乗せた駕籠を担いで登るのは、大変な重労働であったろう。今日は曇り空で、いくぶん気温も下がり涼しい風も吹き下ろしてくる。坂がつきる所に不動尊があり、道は右へと曲がって小佐世保川に架かる松川橋を渡る。
 平戸往還は平戸の殿様が参勤交代のとき通った道で、幅約1.5m程度の道であった。烏帽子岳の山裾に沿ってほぼ一直線に走っている。佐世保旧市内の現在の平地は当時湿地や潟地であり、江戸時代の中頃から少しずつ干拓されていった。そして、明治19年に海軍鎮守府の設置が決定すると、市街化計画によって山々は切り崩され地形は一変した。

住居地の跡に楠木だけが残る高天神社の跡。

 市道小佐世保線を横切り勝富旅館街へと入った。今はホテルや住宅の背後でその位置はつかみにくいが、「予定図」には小高い丘の上に高天神社が記載されている。住宅の間の急な階段を上り神社のあった場所を探すが、新しく建った家々に阻まれてなかなか見つからない。背後に回り込んで石段を上り詰めると草に覆われた小さな空き地があった。神木であった楠の幹が残っており、高天神社跡に間違いないようである。高天町の名の由来となった高天神社は、今はここからすぐ北にある須佐神社に合祀されている。
「高天は天照大神の住む高天原のこと。その高天神社が天照大神の弟である須佐之男命が祀られる須佐神社に遷されたというのも面白いね」
「そいにしても、ここから市街地を眺めていると、市街化される以前の風景が目に浮かんでくるね」
 江戸時代までは、すぐ前の体育文化館から佐世保川沿いの共済病院や親和銀行本店あたりまで、島之地山が聳えていた。この山を切り崩して、道路や商店街が作られていった。いかに大規模な工事であったかが分かる。

櫨山から名切町へ降りていくところに平戸往還が残っている。

 体育文化館横の道路に出てまっすぐに歩いていった。松浦鉄道のガードレール下をくぐり、地方裁判所の裏手へと向かう。小さな石段が残っていて、戦前は旧光園小学校の裏門への道であった。裁判所の庭には平戸往還の松並木があったというが今はない。戦後の一時期、ここにはアメリカンスクールがあった。
 さらに往還は千住内科を通り、医師会館のジムの裏手から中央公園へと下って行く。この一帯はかって櫨山と呼ばれていた。
 中央公園を抜け、宮地獄神社の横へと上がる。ここから道は上下にうねりながら、国道35号とほぼ平行に走る。かなりの坂道なのにあまり疲れない。往還道はまるで人の体と呼吸に合わせて作られているようだ。神社を過ぎると浄土宗九品寺である。十数年前までは赤レンガの塀のある道であったが、今はなく、寺院もモダンな建物に変った。
 小崎坂を下り、谷郷町まで来ると、左手に木造瓦葺きの日本家屋が目に入る。七種医院で、慶応3年(1867)、郡代役所が置かれた。ここから往還道を離れて国道筋に出た。国道を横切り、旧県北会館裏のビルの駐車場を訪れた。駐車場の隅には天満神社の祠が祀られていた。「予定図」にも郡代役所から佐世保川へ至る小道の脇に天満神社と記載されている。天満町の名の由来となった神社であるが、戦災で消失してしまった。
 往還道に戻って、西方寺下に出た。ここには鎮守府建設工事で死亡した人夫達の慰霊碑「役夫死者の碑」が立っている。西方寺から水道局の裏手を通り八幡神社の境内に着いた。峰の坂から約1キロ半、過去から現在までの佐世保の歴史が一つ一つ折り重なって見える、時を旅する道であった。
掲載日:2007年10月13日