日野の塩づくりと牽牛崎砲台の記憶

  
 鹿子前から県道を相浦町方面へと進み、日野の斎場横へと左折した。ここからは土地の人が砲台道と呼ぶ一本道が牽牛崎へと続いている。現在はアスファルト舗装された登り道であるが、戦前はジャリ道で両側には赤松が植えられていたという。
 砲台跡にできたミニゴルフ場の門の前で車を降りた。梅雨の終わりのどんよりとした曇り空にトビが旋回している。辺りは青々とした草が生い茂り、熱帯雨林を思わせる低木の木立に覆われている。かつてのミニゴルフ場は閉鎖され、高い鉄の門は固く閉ざされていた。
 十数年前にここを訪れたときには、地下要塞を思わせる観測所や兵舎跡を訪れることができたのであるが。牽牛崎砲台は、俵ケ浦の砲台跡と同じように御影石とセメント漆喰でできていた。明治35年に完成し、40cm榴弾砲六門が置かれていたという。
 砲台跡に入るのを断念し、徒歩で牽牛崎下にある海岸へ降りて行った。照葉樹林に覆われた小道を10分ほど歩き小さな入江に着いた。海に洗われた岩々と緑に囲まれた船溜まりを目にしたとき、ここが九十九島の一部であることを改めて実感した。

かつては干潟であった大谷の浜に堤防があった。

 十数年前を思い起こし、海岸を一巡りすることにした。最初に目に入ったのは、草むらの中に埋もれたかってのヒラメの養殖場跡である。今では鉄骨の枠と円形の生け簀が残っているだけだ。養殖場跡を抜けると、大谷の浜に出た。驚いたことに、かつての干潟は消滅し、海岸沿いに高い堤防が築かれていた。堤防の向こうには千畳敷と呼ばれた洗濯板のような海蝕床の先端がわずかに残っているだけである。
「十数年前に来たときは、引き潮で干潟が広がり、江湖(砂浜に出来た川筋)が海へと注いでいたね」
「防災のためとはいえ、九十九島へと注ぐ水の浄化作用もなくなってしまったとやろね」
 ここから海岸沿いに更に進んで行くと、陸上自衛隊の駐屯地がある相浦川の河口に至るのであるが、車を留めてある牽牛崎に戻り、一度日野の市街地に下りて相浦川河口に向かった。
 河口に着き、対岸に大潟新田跡の巨大な堤防を見ながら進む。左手の雑木林の中に水の田尾(みずのと)様があったという。ここが日野塩田を開拓したという、田淵、遠藤、前川、山口などの日野七族の上陸の地と伝えられる。日野七族の人々は、忠臣蔵で有名な瀬戸内海の赤穂尾崎荘の出身で、慶安3年(1650)に来て、製塩業を営んだという。

新田開発の記憶、白鬚稲荷神社。ここから日野が一望できる。

 日野七族は頭領尾崎九郎左衛門と共に江戸初期に平戸に来住し、海外貿易に従事し、鎖国令のあとしばらくして日野に来たようである。尾崎九郎左衛門は播磨新田(現佐世保公園とニミッツパーク)を築いた尾崎家の祖先である。中世において松浦党と瀬戸内水軍は密接な関係にあったし、また江戸末期には塩釜用の燃料として石炭が相浦港から瀬戸内各地へ運ばれた。佐世保周辺と瀬戸内とのつながりは深い。
 水の田尾様跡から少し戻り、相浦川左岸にある日野塩田(土肥ノ浦)の樋門跡を確認したあと市街地に出て、塩浜跡を歩いてみた。塩浜は、今の星和台団地の入口通路から共立自動車あたりへと広がり、その北側に塩釜があったようだ。塩釜跡付近を訪ねてみると、住宅地の中に水路がまっすぐ走っていた。塩田の名残りであろう。  水路の先の小山の上に赤い鳥居が見えた。切り立った山の淵に築かれた階段を上って行くと、白髭稲荷神社に着いた。境内には新田開発の記録が刻まれた石碑も立っていた。
 神社の境内からは、日野の市街地が一望できる。市街地の向こうには近年新しく建った日野中学校が見え、そこから視線を少し右に移すと、相浦川河口の先に九十九島の島影が梅雨空にぼんやりと浮かんでいた。日野にも海の道を通じて運ばれてきた独自の文化があったのだ。
掲載日:2007年09月03日