百四十万人の引揚者の記憶の場所

  
 早朝から降り続く雨が突然やみ、雲の間からギラギラと輝く夏の太陽が顔を出した。浦頭の港に立つと鉛の海の向こうに軍艦が見える。背後の山々は雨に濡れ、深い緑に包まれている。
 20年近く前までは、この付近に検閲所跡の建物の一部が残っていたのであるが、今では船舶関係の工場などが立ち並び、岸壁には遊漁船が係留されている。
 建物の間に、『引揚第一歩の地』と記した高さ3m程の記念碑が立っていた。
 この港には、昭和20年(1945)10月から約4年半の間に、中国大陸や南方諸島から百三十九万六千四百六十八人の復員軍人の一般人が、のべ千二百十六隻の船で上陸した。引揚者の多くは栄養失調や引き揚げ時の混乱で、身体が弱り果て、中には引き揚げ船の中で亡くなった人もあったという。苦難の長旅のあとに故郷を踏みしめる引揚者の感慨は、言葉につくせぬものがあったろう。
 引揚者は旧海軍の艦船や米軍のLSTで沖合いまで来て、ハシケで埠頭まで運ばれた。当時を忍ぶため、入り江に突き出しているコンクリートの埠頭まで歩いた。埠頭の突端では、釣り人がノンビリと釣り糸を垂らしていた。桟橋をよく見ると、その一部はそのまま当時の形を残していた。
「戦後60年以上たち、戦争を知る人も少なくなってきているね」
「加藤登紀子や森繁久弥なども上陸しているし、ここはまだ多くの人々の心の現風景として残っていると思うよ」

  

 入江の背後の小高い丘の上にある『浦頭引揚記念平和公園』を訪れた。敷地内には記念館とその背後に平和の女神像が聳えていた。いずれも、全国の引揚者からの寄付と市費で昭和61年に完成した。また、近年港を見下ろす場所に、「かえり船」田畑義夫歌碑が建った。
 記念館には、リュック、飯ごう、水筒、軍帽、DDTの噴霧器などの遺品や、当時の写真が展示されてあった。中でも、DDTをかけられたあと、休むまもなく7キロの小道を重い足を引きずりながら、針尾海兵団あとの引揚者収容所に向かう家族連れの姿が印象的であった。
 二人もその道をたどるように、ハウステンボスから早岐瀬戸を渡り、瀬戸沿いに南下した。峠を下ったところで右折し、路地を抜けて行くと南風崎駅に着いた。無人の駅に立つと、赤茶けたレールが飴のように伸び、どんよりと曇った空から今にも雨が降り出しそうだ。

浦頭の港には、わずかに当時の埠頭が残っている。

 引揚者たちは、今のハウステンボスの地にあった引揚者収容所で2、3泊したあと、この駅からそれぞれの故郷へと向かった。
 元来た道を戻り、JRハウステンボス駅からハウステンボスへとかかる橋の袂に着いた。この橋はかつて引揚者が渡った橋でもある。ここに海軍兵学校針尾分校の碑が建立されていた。
 ハウステンボスの地はかつて赤子と呼ばれ、江戸時代中期頃新田干拓によってできた。その後昭和19年に針尾海兵団ができ、終戦間際の昭和20年3月に海軍兵学校針尾分校が設置、終戦後には引揚援護局が開設された。更に、昭和25年海上自衛隊の前身、警察予備隊ができ、その後工業団地として再整備された。まさに歴史の荒波に翻弄され続けた佐世保の歴史を象徴している。
 ハウステンボスの中世オランダ風の建物を右手に見ながら、瀬戸沿いを海岸まで進んだ。大きな自然岩で組んだ海岸線から、長い埠頭が伸びている。赤子新田の一丁突き出しの跡を防波堤として再整備してあるようだ。

ハウステンボスの端に、赤子新田の一丁突き出しがある。

 巨大な龍骨のように海に突き出した埠頭の上を歩くと、海風が頬に心地よい。海上から眺めるハウステンボスはすっかり日本の濃い緑に包まれている。埠頭の先端に立つと、まるで西洋と東洋、過去と未来の十字路に立っているような気分になった。
 対岸には瀬戸沿いに茶市の青や白のテントが海面に映えている。空一面に広がる霞が午後の陽光を孕み、風景全体がボーと明るくなった。梅市の頃には雨混じりの曇り空に変わるのであろう。
掲載日:2007年08月08日