昔の市を思わせる「早岐茶市」を歩く

  
 早岐田子ノ浦バス停を過ぎると、早岐瀬戸沿いのガードレールに緑色で「早岐茶市」と染め抜かれた旗が五月の風に揺られていた。そのまま国道を抜け、シルバーボウルの背後に設けられた駐車場に車を停めて、親和銀行早岐支店を目指して歩いた。空は晴れてはいるが、うっすらと霞んでいる。中国からの黄砂の影響もあるようだ。
 東橋を渡り、支店前に並ぶ露店をのぞいてみた。海産物などとともに、既に大梅、小梅、青梅などの梅類も売られていた。今日は5月28日、後市の最終日であるが、来月の7、8、9日からは梅市も開かれる。
 海岸まで出ると、潮と干物の入り混じった不思議な匂いが漂う。早岐茶市はここから観潮橋まで500m、テント張の露店が通りの両側に400店ほどずらりと並んでいる。買い物客に混じってテントの下を歩き始めると、「いらっしゃい」という大きな掛け声があちこちから聞こえる。「茶市の風にふかれれば風邪をひかない」と言われ、地元では欠くことのできない季節を告げる風物詩となり、一日約一万五千人の人出で賑わっている。

茶市はもともと農産物と海産物の交換市だった。
 露店には、嬉野茶や彼杵茶、世知原茶をはじめ、切り干し大根、干しシイタケ、果物などの農産物、干し魚、コンブ、イリコ、チメンジャコ、ウニ、ワカメなどの海産物が並び、まさに海の幸、山の幸があふれんばかりである。この他、陶器、荒物、竹細工、和菓子など様々で、包丁などを砥石でといでくれる砥ぎ屋さんもいる。
 出店している人々は、市内や大村湾沿岸はもちろん、平戸、五島、佐賀、福岡、遠くは島根からもやって来る。早岐茶市は、「かえまっしょ、かえまっしょ」と海の幸と山の幸を交換する市であったが、今はごく一部で「換えんね」と言って行われるだけである。それでも、市価より安い品物を、さらに値切る客との駆け引きは見ものである。
 早岐茶市は毎年5月の8のつく日を中心に、それぞれ三日間開かれ、それぞれを初市、中市、後市といい、普通は6月の梅市も合わせて、早岐茶市と呼ばれる。
 その起こりは、約四百年前の戦国末期との説もあるが、記録に残る最初のものは、江戸時代の天明八年(一七八八)のことで、旧暦の4月8日、7月8日、12月8日と18日とある。
 この頃は春、夏、冬の、末広がりで縁起がよいとされた八の日に行われた。最盛期の幕末から明治中期の頃には、瀬戸が五、六百艘の船で埋まり、茶市商人の中にはこの市で一年分の暮らしが成り立つ者がいたともいわれる。

早岐瀬戸沿いに青いテント張りが並ぶ。
 大正年間になると、5月8日、18日、28日、及び6月8日となっており、現在のもととなる形が出来上がったようだ。
 多く人々と肩ふれ合いながら歩いて行くと、途中でヒジキ、テングサなどの海産物を地面に座ったままの「据え売り」で売る五島からの老婦人に出会った。もう40年もこの市に出店しているという。30年前ごろまでには、五島からの船が海岸に数多く係留されていたというが、今ではその数も減っている。
 一巡りして、茶市風景を対岸から望もうと、観潮橋を渡る。橋の上は相変わらず車が激しく行き交っていた。橋のたもとに小さな空き地があり、鳥居とエビス様の祠が祀ってあった。エビス様は市神さまで、毎年1月20日はエビス講が開かれている。この付近は昭和初年までは名島公園と呼ばれ、料亭などから観潮を楽しんだという。
 ここからは真下の瀬戸の様子が手にとるようにわかる。深緑の静かな海面が、瀬戸に突き出した突堤に近づくにつれ急流となり、外海に吸い込まれるように、白い飛沫を上げながら落ちていく。
 対岸には瀬戸沿いに茶市の青や白のテントが海面に映えている。空一面に広がる霞が午後の陽光を孕み、風景全体がボーと明るくなった。梅市の頃には雨混じりの曇り空に変わるのであろう。

掲載日:2007年07月06日