山祇神社から木風へ、平戸往還を歩く

  
 うっすらと霞のかかった青空を見上げながら平戸往還峰ノ坂を上って行くと、体内からジワリと汗がにじんできた。だらだら坂を振り返り、街を眺める。山々に囲まれたすり鉢の底のような街の真ん中に高層ビルの姿が目立ってきた。
 山祇バイパスに出る100mほど手前から右へ折れ、下って行くと峰ノ坂児童公園である。ここはかつて陸軍墓地があったところであるが、明治21年(1888)、東山の海軍墓地へ移された。楠の大木が聳える小さな公園には、数人の老婦人が憩うだけで、当時の面影を伝えるものは残っていない。二人はもと来た道を引き返し、峰ノ坂を上りきった。
 山祇バイパスを真っ直ぐ進み、少し上ったところに山祇神社がある。神社横は馬宿と呼ばれる江戸時代の役所があったところである。馬宿は馬を乗り継ぐところで、馬宿役人が役所の運営と取り締まりにあたっていた。
 山祇神社の境内に足を踏み入れると、中は椋ノ木、マキノ木、藤などの木立に囲まれ、まさに鎮守の杜である。鳥居の正面の一段高い所に本殿があった。本殿横には岩をくり抜いた手水鉢があり、文久元年の銘が刻まれていた。神社の由来記には元禄5年(1692)とある。山祇神社の祭神は大山祇命であるが、元々は山の神で、その歴史はもっと遡るようである。
 石段を下り小さな広場に立つと、椋ノ木の巨木が涼しい木陰を作っている。薄い新緑の葉を陽光が透かし、地面に光の波紋が揺れていた。
 鳥居を潜り境内の外に出て、鳥居脇の古木の根元を見ると旅の神様として知られる猿田彦が祀られていた。旧平戸往還の道筋と、修験者が修行した霊山である烏帽子岳の登山口が交差する位置に建つこの神社には、古来より多くの旅人が訪れたようである。

山祇神社には巨樹が繁る。この脇を往還が通る。
 ここから約3m幅の小道を須田尾町方向へと進んでいった。右手に山澄中学校を見ながら歩いて行くと住宅地に入り、その途中に山祇籠立場があった。平戸の殿様行列は、ここで一息入れ、籠を立て、馬を立て直して旅を続けた。馬宿から続く台地上にある籠立場付近には、昔は家も建っておらず、佐世保港が一望のもとに見下ろせたという。
 ここから数十m歩くと分かれ道に来る。この付近が平戸往還道ゆかりの茶屋の原で、真っ直ぐ進めば急な下りの緑坂であるが、左に道をとった。少し進むと道路下にこんもりした林が見え、急勾配の石段が谷の下まで降りている。谷間には何軒か人家があり、左に折れると巨岩に囲まれた場所に出た。
 苔むした岩場には、不動明王やゲタばき地蔵など様々な石仏が安置されている。特に巨岩の上にポツンと乗っている役の行者像が印象的あった。更に進むと風の音に混じって水の音が聞こえてきた。岩の背後に回り込むと、一筋の川が小さな滝となって流れていた。それでも、木風小学校ができる前は水量もかなり豊富で、滝にうたれる人もいたという。

木風小の下にひっそりとなる「お滝場」。役行者の石像も。
 小さなせせらぎに沿って谷の入口まで下り、滝の右手にある小道を上って行くと、高さ2m程の薬師如来が鎮座していた。砂岩の一岩彫りで、大正13年の銘があった。当時としては佐世保で最も大きな石像であろう。大正時代と言えば、熊野町や鵜渡越の磨崖仏が思い出される。大正時代の佐世保には一種の霊場ブームが起ったのかもしれない。
 林の中の小道を上って行くと、木風小学校のグランド前に出た。グランドから校舎に上る土手の斜面には、赤白のツツジの花が色鮮やかに咲き誇っていた。校舎の背後には萌えるような新緑に包まれた烏帽子岳が聳え、山々から吹き下ろす薫風が神々の里を渡っていく。

掲載日:2007年06月11日