鄭成功が台湾に作った二つの城

  
 カーステレオからテレサ・テンの澄んだ歌声が流れる。高雄市から台南市ヘ向かう自動車専用道路の両側には、ヤシやバナナのプランテーションが並び、ウナギの養殖用溜め池もあちこちに設けられている。
 高雄市から約50kmの台南市までは車で30分ほどで着いた。自動車専用道路を下り、台南市内に入ると赤、緑、黄色など原色の看板が目に付く。台湾は南に行くほど、街も雑然としてエネルギーに満ちている。髭のような樹根をたらしたガジュマルの巨木が聳える空き地で車を下り、邱温龍、林淑静両氏の案内で、路地道を歩いて行った。家々の壁は漆喰があちこちで剥落している。
 大通りに出て、そのまま進むと右手に狛犬像が立つ門があった。門を抜けると、芝生の向こうに、屋根の端が天に向けて反り返った二階建ての赤い建物が目に入った。この中国式の建物が、赤嵌楼である。その右側には、等身大のブロンズの群像が立っていた。正面が二人の従者を従えた鄭成功で、鄭成功がオランダ総督から政権を受け取る場面が再現されている。

 オランダは1580年前後から台湾に進出し、赤嵌地方にアジアの中継貿易のための商館を建て、市街地を建設した。そして1653年にその本拠地としてプロビンシア城(赤嵌楼)を築いた。現在の中国式の建物は、清朝末期に建てられた海神殿と学問の神様を祀る文昌閣からなり、オランダの建造物跡の上に建設された。建物の背後に回ってみると、四角い発掘現場跡に漆喰で積み上げたレンガ塀が露出していた。
「この風景はどこかで見た気がするね」
「平戸のオランダ商館跡と似とるよ」
 台湾のオランダ東インド会社の施設の一部は、寛永18年(1641)に幕府から破棄を命じられた平戸オランダ商館の部材が使われているという。
 建物の周囲に立ち並ぶ石碑や石馬を眺めながら、建物の中に入ると、中にプロビンシア城の模型が展示してあった。当時この城は、安平湾の奥に位置していたが、長崎の出島のように周囲が埋め立てられた。湾口に築かれていたのが、もう一つのオランダ城・ゼーランジャ城である。
 ゼーランジャ城を目指して、安平港方面へと西進した。小さな湖の側に車を留め、4人でそぞろ歩いた。道教式の墓地の横を抜けると、山積にされたパイナップルが甘い香りを漂わせていた。城に入る前に腹ごしらえと、古堡街に並ぶ屋台の一つに入り、麺に魚、焼き飯と台湾料理を頬張った。
 昼食後城内に入ると、爆竹の音と香の匂いで縁日のように華やいでいる。ピラミッドの上部を切り取ったような石積の正面階段を上って行き、記念館に入った。この城跡は、オランダ時代から、鄭成功時代、清朝、日本統治時代という長い歴史を経て今日に至っている。

オランダの建造物の上に建てられた「赤嵌楼」
 ゼーランジャ城は、オランダ人によって1623年から10年の歳月を経て完成した。当時は星型の石積みの上に赤いオランダ風の建物が立っていたという。現在は身の丈の何倍もある高い城壁や井戸、大砲のほか、発掘によって数々の生活あとが保存されている。
 明朝復興のために清と戦っていた鄭成功は、南京で破れた後、厦門、金門二島を根拠地に、台湾解放を目指した。
 1662年、成功は大潮を見計い、大軍をもって安平湾内に侵攻し、オランダ軍を撃退した。その後、成功はプロビンシア(赤嵌)城を承天府とし、ゼーランジャ城を鄭氏の居宅としたが、同年6月に39歳の若さで病死してしまう。

ゼーランジャ城(安平古堡)に残る当時のレンガ壁
 城の西には台湾海峡が広がり、その向こうは中国大陸、そしてこの海は成功の故郷平戸へも続いている。彼はどのような思いで波瀾万丈の生涯を閉じたのであろうか。城下にある菜の花畑には、黄色いモンシロチョウが初夏のような暖かい日差しを受けながら飛び交っていた。
掲載日:2007年05月07日