鄭成功の足跡を辿り平戸から台湾へ

  
 赤い平戸大橋を渡り、国道383号線を市街地に向けて進んで行く。亀岡公園のすぐ前で左に折れると、猶興館高校のグランドである。休日のグラウンドは人影もなくガランとしている。
 グラウンドの片隅にシイの木が立っていた。鄭成功の手植えの木であるという。木の葉にキラキラと照り返す日の光は、もう春の気配がする。ここは平戸の剣術家花房権右衛門の邸宅跡と伝えられ、鄭芝龍・成功親子が剣術を習いにかよったと伝えられる。四百年程前に植えられた木も、昭和23年のグランド整地の際に枯れ、今のものはその別れ木である。そのすぐ傍の石碑には、松浦詮公の詩が刻まれている。
 市街地を抜け、平戸瀬戸沿いの海岸線を南下した。千里ケ浜に着くと海岸に下り、しばし散策した。ヤシの木が並び、2月というのに穏やかな南風が吹く白い砂浜は、なんだか季節感を失ってしまいそうだ。
 遠浅の海は、コバルトブルーから濃い藍色まで光の強さと角度で微妙に変化する。浜の西隅まで歩くと、砂浜にストーンサークルのように大石で半円に囲われている所があり、中には「鄭成功の児誕石」があった。鄭成功の母マツが、貝拾いをしているときににわかに産気づき、この大石にもたれて出産したという。

千里ヶ浜にある鄭成功の児誕石。
 車に戻り、岬を迂回するようにして進み、川内浦に着いた。近年、港湾整備されて地形も随分変化してしまったが、17世紀のはじめ頃、岬の麓の海辺付近にオランダ商館があった。当時の平戸は国際都市で、狭い町にオランダ人やイギリス人のほか、中国人も居住しジャンク船で貿易を営んでいたが、海賊的色彩も強かった。その棟梁がかっての王直や李旦であり、その跡を継いだのが鄭芝龍である。鄭芝龍はイギリスやオランダの艦船が入港していた川内浦に1622年(元和8年)に入り、居を構えた。当時の川内浦には、華僑社会のようなものが形成されていたようである。芝龍は2年後に田川七左衛門の娘、マツとの間に子を設け、福松と名付けた。後の鄭成功である。
 鄭芝龍は中国明朝に招かれて武官になり海上権を独占した。成功は7歳のとき父に呼び寄せられ、父と共に清と戦い、明の国姓である「朱」を賜った。しかし、芝龍は清朝に屈伏し、母マツも自害した。
 そのあとを継いだ鄭成功は、厦門、金門二島を根拠地に、東シナ海沿岸を抑えて清に抗し続けて、一時は南京にも攻め入ったが、ついに退散した。
 その後1661年、オランダ占領下の台湾で、ゼーランジャ(安平)城を攻略し、勝利した。鄭成功が台湾解放の民族的英雄と呼ばれる所以であるが、成功は翌年病死してしまう。

川内浦にある鄭成功の生家跡にはナギの木が残る。
 川内の街中に入ると、通りには昔ながらの格子戸のついた家々が並んでいた。さらに細い路地に入ると、前面に小さなお社があった。小さな階段を上ると境内にナギの木が立っていた。樹齢四百年にはなり、当時からのもののようである。
 裏手に上ると観音堂があった。中に入ると本尊の横に「媽祖像」が千里眼と順風耳の脇仏とともに祀られていた。媽祖像は道教の女神で、航海安全の神様である。中国福建省や台湾の媽祖寺と共通するものがある。
 一度国道に出て丸山を訪れ、港を見下ろす小高い岬の上に登った。カシの木などの雑木林に囲まれた小さな広場に赤いお堂があり、鄭成功が祀られていた。この像は、昭和37年台南市にある「明延平郡王祠」から分霊をうけ、祀ってあるという。7月14日の鄭成功祭(成功の誕生日)には、鄭氏親睦会のグループが毎年台湾から訪れるという。
 南の方角を眺めると、雑木林の間からさざ波立つ海と、沖に点々と係留されている船が見える。この海は遠く中国、台湾まで続いているのだ。鄭成功を訪ねる二人の新たな旅はここから始まる。
掲載日:2007年03月20日