飯盛城攻防をめぐる戦いの足跡を歩く

  
 国道204号線を大野から皆瀬本山方面へと向かった。上本山の交差点を過ぎたところで右折し、MRの線路と平行に進んで行くと、右手に神社の鳥居が見えた。鳥居の前で車を下り、参道の石段を上っていくと、小さな雨粒がパラパラと落ちてきた。
 境内には神殿と小さな前庭があるだけで、ひっそりとしている。この神社は白山比?神社といい、戦国時代の神像が祀られている。博多仏師猪熊治部丞藤原運貞作の木彫座像である。神社の背後に宗家松浦ゆかりの寺院新豊寺跡がある。

新豊寺跡にある佐世保にはめずらしい男女の地蔵板碑。
 神社横の小道を上り、石垣の上のお堂に着いた。お堂前の石垣の縁沿いに、さまざまの中世墓碑が立ち並んでいた。その一つは、唐津の波多興の供養塔で、天文5年(1536)の銘が入っている。波多興は、宗家松浦15代当主で飯盛城主の宗金親の妻、多見野の父に当たる人物であった。この他、男女の像が刻まれた地蔵板碑等もあった。
 新豊寺は、宗家松浦氏が本拠地を今福(現松浦市)から相神浦(相浦谷)に移してからの宗家松浦氏の菩提樹であった。宗家松浦13代盛は嘉吉3年(1441)に巨鐘を新豊寺に寄進している。
 お堂前の中世墓碑を一つ一つ確認した後、背後の墓地へと上がって行った。道脇の白い水仙の花や赤いツバキが、凛とした冬の寒さの中で可憐に咲いている。墓地は近年改築され真新しくなっていたが、所々に中世墓碑が残っていた。墓地のすぐ西側の峰に中世の居館跡三丸館がある。

新豊寺跡には古い板碑や宝筐印塔がある。
 神社の鳥居前まで戻り、車で下本山の交差点まで進んだ。MR線のガードを潜ってすぐ右折し、桜田病院の上手に車を留め、家々の間の細い路地に入っていった。杉木立の中へ分け入ると、山の尾根の先端を切り込むような形で、身の丈の倍程の深い空堀があった。ここが三丸館跡である。この空堀と平行して、長さ40m、幅3m程の土塁も築かれていた。空堀の前面が馬蹄形状の館跡とされているが、後ろの山中にも縦堀を確認した。空堀前面に出ると、南向きの丘に宅地と畑が並び、その先には、相浦川と平野が広がっていた。
 三丸館跡を出て、一本松砦を目指して上って行った。細い道を何度もカ−ブしながら、高い石垣に囲まれた旧家天久保家に着いた。敷地の両側には井戸が掘られ、家の回りには高さ4.5mもある石垣が巡らされており、その背後の畑との間に空堀を確認した。
 二人は一本松砦跡を出て、飯盛城攻めの際の戦略図ともいえる「相神浦惣図」を開き、眼下の相浦谷を眺めながら語り合った。
「すぐ下は三丸館、目の前は小田砦、飯盛城や相浦谷の様子が手に取るようにわかるね」
「平戸松浦の軍勢は、一本松砦を守っていた東一党を追い落として、陣を築いたとね」

一本松砦跡は民家になっているが、今も空堀のあとがわずかに残っている。
 永録年間に行われた第2回飯盛城攻めは、平戸松浦氏を松浦本家である宗家松浦氏との戦いであった。
 平戸松浦氏はまず佐々東光寺に本陣を構え、さらに半坂峠を越えて、飯盛城攻めのための搦みの砦を岳野の一本松に築いた。また、他の軍は小川内から大智庵を回るルートで、小田砦の宗家松浦方を攻めた。更に小田砦を落とした平戸松浦勢は高筈峠を越えて吉岡に下って三丸館へ至り、ここで激戦となって、平戸勢は多くの犠牲者を出したという。
 半坂の合戦の際に討ち死にした東光寺の僧伝育の墓があるというので、市道八ノ久保線の上にある堤を訪れた。土手の奥の林を探し回ったが、墓碑は見つからなかった。近年佐々東光寺の墓地に移されたという。
 土手の上に立つと、眼前に三角形の飯盛山が聳えている。山の背後の海は曇り空と溶け合っていて水平線が定かでない。うっすらと光を受けた九十九島の島影が、海と空の間にぼかし絵のように浮かんでいた。
掲載日:2007年02月19日