広田城跡も広田窯跡も住宅化の波に飲み込まれ…

 早岐から小森橋を渡る。橋上を見上げると、上空を十数羽のトンビが旋回し、2羽は電線の上から川の水面をジッと見ている。満潮で、早岐瀬戸から海水と淡水が混じり合う汽水域まで上ってくるボラを狙っているのであろう。カモたちも時折水中に顔を突っ込みエサをついばんでいる。
 広田側に着くと、川岸を上流に向かって歩いた。以前はこの辺りに渡し船の船着き場跡が残っていたのであるが。ここから右手に折れ、なだらかな斜面地を上って行くと路地に出た。路地の両側には古いたたずまいの家並が続き、谷道となって丘へと登っていく。登り切った所に家々に囲まれるようにして段々畑の一部が残っていた。畑の前面には、新興住宅地のコンクリ−トの壁が聳えている。ススキに覆われた畑の石垣をよく見ると、レンガ色に変色し、横一列に四角い穴が並んでいる。これが江戸時代末期の古窯跡、広田下窯の煙道である。
 以前の記憶をたどりながら、住宅地横の草に覆われた斜面を登って行くと、十段近くもある畑の所々に煙道が見えた。周辺には焼物片やハマ、トチンなどの窯道具が落ちていた。この窯跡は唐子絵などの絵付製品を焼いていた広田上窯である。

広田窯跡の上には住宅が建って、前の面影はない。
 窯跡を登り切ると、稲荷神社の境内の向こうに真新しい住宅が広がっていた。お堂の横には天保12年(1841)の石祠や瓦で出来た対の狛犬などが祀ってあった。もともとは窯神様であろう。狛犬には廣田瓦師丸田佳代吉と銘が刻んであった。丸田家は代々瓦焼の家系である。一般に瓦を焼く窯と白磁を焼くのぼり窯は形態が異なっており、瓦焼の窯は別の所にあったようだ。
 のぼり窯の高台から小森川沿いの尾根伝いに登った所に広田城跡があるが、一度住宅地に下りて谷道を登ることにした。
「この十数年でこの辺りの風景も一変したね」
「前はここに堤があって、野壺が並ぶ山道を登り、鬱蒼とした林の中に入って行ったよね」
 住宅地の公園から梅の木の段々畑を登ると、土手の左手に小森川に向けて大きな溝が掘られていた。敵が登り難くする縦堀の一つである。正面の崖を上がると、杉やカシなどの雑木に覆われた空き地に出た。城の本丸跡に続く郭で、周囲に土塁が巡らされている。
 東側の城の先端に下りて行くと、4本の堀切が連続している。城の南側には武者走りと言われる帯廓が数段走っており、その下に縦堀が5本ある。城の遺構を確認しながら本丸方向へと戻った。城の中は住宅地がすぐそばまで迫ってきたせいであろうか、以前と比べて随分明るくなったようである。

広田城跡には、まだくっきりと縦掘が残されている。
 天正14年(1586)4月4日、井手平城を攻撃した大村、有馬、有田、波多の連合軍は、翌5日井手平城を攻め落とし、続いて広田城を包囲した。北は小森川、南は断崖、東は堀切で侵入を防ぎ、この城の守りは極めて堅固のようである。事実、3週間後に平戸からの援軍が到着すると、連合軍は包囲を解き帰陣した。
 本丸跡の周囲にある空堀を確認した後、住宅地内を下りて県道を横切り、広田小学校の前の小さな丘に登った。頂上には五輪塔などの中世墓碑などと共に、「可雲空得居士」と刻まれた板碑があった。これが広田城主佐々加雲の墓碑である。
 加雲は広田城の戦いの後、松浦鎮信の命で大村軍を彼杵城に攻めるが、逆襲され九十九島の金重島で自害した。その首塚がこの堂山であると伝えられている。  堂山を下り、県道を重尾方向に歩くと住宅地の中に古い1m程の石標が立っていた。地元の言い伝えによると「矢通し石」といい、広田城から矢が届いた位置の印であるという。
 「城からここまで矢が届くやろか」などと話しながら城の方向を眺めた。
 広田城跡は住宅地の向こうの小山の中にある。数々の史跡が宅地化の波に飲み込まれていくようだ。

掲載日:2007年01月20日