井手平城と塩浸城はどんな関係だったのか?

 国道35号線を早岐から三川内方面へと向かう途中、左手に神社と寺院が並ぶ風景が目に入る。上宮神社と薬王寺である。
 国道を左折して小道を進み、上宮神社の脇に車を留めた。谷間の小道を上って行くと、手すりの付いた石段があった。その石段を数十段上ると小丘の頂に出た。頂は直径40mから60m程の円形の広場になっている。
 ひとまず小丘を取り巻く小道を一周してみることにした。小道のあちこちに栗の実が落ちていた。ドングリは今年は少なく、これも温暖化現象の影響であろうか。小道の両側をよく見ると両側に盛土がしてあり、今歩いている道が空堀の跡であることに気付く。ここが従来から井手平城の本丸と言われていた所である。

平成12年の発掘調査で刀のツバややじり、鉄砲玉などの武具が出土した。
 井手平城は佐世保戦国史上、最後の戦いの舞台となったところである。1587(天正14年)4月、大村純忠は唐津の波多氏、島原の有馬氏、有田氏などとの連合軍と共に井手平城を攻めた。井手平城には、平戸松浦方の城兵が立て籠もっていたが、この戦いで城主岡甚右衛門をはじめとする約三百人の城兵のほぼ全員が討ち取られてしまった。
 この本丸跡は三百人の兵が籠もるには狭すぎるのではないかとの疑問が出されていたが、この疑問を基に近年再調査が行われ、本丸の東側の谷を隔てた尾根の上に、本丸の数倍の広さの城跡が確認された。
 谷間の道に再び下りて、東出郭と呼ばれる新発見の城跡へと向かった、50m程進むと古い池があった。薄暗く淀んだ水面に木漏れ日が揺れていた。この池は中世の山城には珍しい水堀の跡である。

井手平城の本丸跡とされるところ。
 池の中央にある土橋を渡り、斜面を上って行くと、丘の稜線上を南北に走る小道に出た。ここから南へ少し進むと、高圧電線の鉄塔が聳える広場に出た。この周囲だけ木立が切られ、ススキがなびき、赤いハゼの紅葉が鮮やかである。ここは平成12年に市教育委員会により発掘調査が行われ、東出郭の主曲輪であることが分かった。
 この発掘の結果、中国明代の染付碗や、刀の鍔(ツバ)、鏃(やじり)、鉄砲玉などの武具のほか、火鉢、炭壺などの日常生活品なども出土した。このうち染付碗類は16世紀後半のものであり、井手平城の戦いの年代とほぼ重なる。

塩浸城跡には空堀が残っている。
 主曲輪の周囲の段築(犬走り)や土塁などを確認したあと、分厚い腐葉土を踏みしめながら、敵の侵入を防ぐ空堀や堀切、縦堀などを一つ一つ確認して回った。堀切は主曲輪の北に2本、南に50m行った所に2本、さらに100m程下りた所に深い堀切が1本あった。堀切はいずれも小森川方向へと、急峻な縦堀となって落ちている。
「東出郭は本丸跡の数倍もあり、ここなら三百人の兵も籠もれるね」
「それにしても、井手平城を攻めた連合軍は皆、有馬氏の血族たいね」
 この頃、西肥前一帯は佐賀の龍造寺氏の影響下にあった。ところが、龍造氏の急死により一時的に政治的空白が出き、島原の有馬一族の大村氏、波田氏、有田氏などがそれぞれの思惑により、当時平戸松浦氏の支配下にあった井手平城を攻めたのである。
 井手平城の前方には、田園地帯を隔てて塩浸城跡がある。小森川と三川内川に挟まれた三角地点にある細長い小山の中に分け入った。雑木林の尾根伝いに歩くと、突然4m程もある深い堀切にぶつかった。同じような堀切の跡が本丸の前後に7・8ケ所あった。今のところ、この城が井手平城の出城なのか、あるいは城攻めのために連合軍が築いたのかは謎のままである。
 さまざまな思いを巡らせながら城跡を歩き回り、薄暗い林を抜けると、再び目の前に田園風景が広がった。眩しいばかりの日の光が、色づき始めたモミジ葉を明るく照らし出している。秋は一層深まっているようだ。
掲載日:2006年12月15日