戦国時代に戦いがあった九十九島の金重島

 鹿子前から二人乗りカヌーに乗って船出した。ビロードを敷きつめたような静かな海面を、左手に遊覧船を見ながら進んで行く。目の前には無音の海が広がり、聞こえるのはかすかな蝉の声だけである。
 呼吸を合わせながら、パドルに力を込めると、舳先の海面を小さな魚の群れがジャンプする。エタリ(片口イワシの子)である。
 遠くでは、もやに霞んだ島影の周辺に、無数の光の点が飛び散っている。外海近くでは波が大きくなり、日の光が反射しているのだ。
 小さな岬を右に回り込み、元島と海岸がつくる海峡を抜けて行った。元島を左旋回しながら、烏の巣を呼ばれる島まで来ると、前方に鼠の置物のような形の島が現れた。鼠島である。鼠島の向こうに重なるように金重島が浮かんでいる。烏の巣を過ぎると、外海からの波が寄せてくる。鼠島の小さな砂浜に着いた。
鼠島から見る金重島
   鼠島の頭の部分は葦などの雑木林で、胴体の部分は樫などの樹木に被われている。しばらく休息した後、鼠島の北側を通って西へと向かった。右手に陸上自衛隊の駐屯地を見ながらパドルを漕ぎ、そこから約30分で金重島に着いた。

 砂浜にカヌーを引き上げ、島を巡ることにした。金重島は島の東西に砂浜を持つ、南北600mほどの島である。戦後は一時米軍専用ビーチとして使われ、近年まで船着場のロッグデッキの骨格が残っていた。米軍が植えたといわれるダイオウマツは今も数本残っている。
 二人は、佐志方善芳が隠れたという洞窟を探しに、砂浜の背後の茂みを抜けて西側の砂浜にも訪れたが、見つけることができなかった。南側の岩場にあった可能性が高いようだったが、波が荒く訪れることができなかった。
 天正14年(1586)、平戸松浦氏と大村氏の間で井手平城合戦及び広田城合戦が起きた。その直後、広田城代の佐々加雲と佐志方善芳が大村領内の彼杵城攻めのため出船する。
 しかし、大村勢の激しい抵抗にあい退却をよぎなくされ、その途中に大村与市らにより金重島まで追撃される。ここで佐々加雲は切腹し、佐志方善芳は島の洞窟に身を隠した。その後、佐々加雲の首は漁師に扮した平戸方の北川長介によって奪い返され、佐志方善芳は子の佐志方庄左衛門によって救出された。

金重島は浅瀬の入江をもつ島で、海水浴でも賑わう。
 このとき金重島で討たれた兵士たちの供養塔が針尾島の江上地区堂山に残っている。江上里公民館の裏手の尼寺跡と呼ばれる所である。境内入口に小祀堂があり、本尊の阿弥陀如来などが残っている。その背後に中世墓碑が散在しており、その一つの宝筐印塔の台座に慰霊の碑文が書かれている。戦国時代江上地区は佐志方氏の支配下に置かれていた。
 午後3時半を過ぎて太陽も次第に西に傾き、砂浜からカヌーを出し帰路につくことにした。やわらかな秋の陽射しが砂浜にそそぎ、海も空も淡いコバルトブルーに輝いている。船を漕ぎ出すと、西風で波が陸の方から寄せてくる。逆風を突くようにして、パドルに力を込める。帰りは、鼠島の外海側を通って行くことにした。前方には見慣れた烏帽子岳や弓張岳などの佐世保の山々が並んでいる。振り返ると照葉樹林に覆われた金重島の島影が黒く見える。鼠島の東側はケスタ地形の海岸が続き、ゴツゴツした岩が波に洗われている。

江上の堂山の林の中に、金重島の戦いの供養塔があった。
  鳥の巣と牧の島の間を抜け、元島の南側を回り込み鹿子前の湾内に入っていった。緑に覆われた島は、引潮で、波に洗われた岩肌を露出し、所々に自然の洞窟を作っている。その穴の中に白いコサギが身動き一つしないで羽を休めていた。佐志方善芳もこんなふうに身を潜めていたのであろうか。
 帰りは一気に漕いで、約1時間で鹿子前に着いた。もうすぐ夕日が九十九島を黄金色に染める。
掲載日:2006年10月20日