てぼ古墳と無窮洞、古代から現代まで。

てぼ神古墳
 早岐から県道を通って重尾・舳ノ峰峠へと向かった。舳ノ峰峠は江戸時代藩境を警固した番所があった所である。番所跡には、梅やミカンの畑の中にかっての番所役人の家であろうか、白壁の朽ちかけた農家が残っていた。
 大村藩と平戸藩との境を示す境碑を確認するために、少し戻って八並家を訪れた。八並家の庭には、「従是西平戸藩支配所」「従是平戸領」と陰刻された境碑が立っていた。現在佐世保市域のほとんどが江戸時代松浦藩に属していたが、宮地区だけは大村藩であった。八並家には「二石一人扶持」と記された文書なども残っている。番所役人は早岐押役所の管轄下にあった。
 舳の峰峠を越えると、宮村川に沿ってしだいに田園風景が開けてくる。昨夜来の雨も上がり、稲の青さが目に痛いほど鮮やかである。宮小学校の横の田圃の中にある「てぼ神古墳」を訪れることにした。畦道を伝って歩いて行くと、梅の古木と古墳の板石が露出した場所があった。てぼ神古墳からは、メノウの勾玉や刀子、須恵器、菅玉などの遺物が出土した。須恵器の形式から7世紀の後期古墳とみられる。第一床面と第二床面には、約5cmの差があり、2世代にはわたって造営された可能性がある。
 てぼ神古墳の近くには、中世居館跡の蓮輪館と古墳時代石棺群がある。更に下手には、弥生時代の石棺群とカメ棺が出土した中村遺跡がある。まさにこの一帯は古代遺跡の宝庫である。

かつて舳ノ峰番所にあった藩境碑。
 てぼ神古墳を見下ろす所にある、宇都宮神社を訪れた。鳥居を潜ると、一説に八百年の樹齢を言われるケヤキの巨木が聳えていた。祭神は宇都宮弥三郎。宇都宮氏は南北朝から戦国時代にかけて宮の地を領した豪族である。東松浦郡相知町の医王寺にある鐘に、永和二年(1376)の年号と共に、「彼杵庄内父賀志村宇都宮藤原朝臣通景」の記銘がある。ここで注目すべき点は、宮村ではなく父賀志村と記されていることだ。父賀志村(浦)は、宇都宮を祀るようになってから、宮村に改めるようになったという。
 宇都宮神社は宮村の鎮守とされ、明治期以降、宮村から戦死者が出なかったことから、軍神とされてきた。
 また、宇都宮神社の北には、宮村館跡があり、宇都宮通景の居館であったと伝えられている。

「無窮洞」は小学生たちによって掘られた岩の教室。
 再び県道へと下り、宮地区公民館の職員の方の案内で無窮洞を訪れた。宮村川河畔の空き地には宮小学校(国民学校)の記念碑が立っており、その背後の山際の岩壁に「無窮洞」という文字が掘られていた。鍵を開けて入ると、中は巨大な防空壕であった。
 幅約5m、奥行き約20m。天井は高いアーチを描き、正面奥には教壇、壁には飾り柱まで造られている。岩窟の中の修道院といった趣である。これらはすべて当時の小学生によって掘られたというから驚きである。先生の指導によりツルハシで掘り進み、女子生徒がノミで仕上げた。凝灰角礫岩という柔らかい岩質がこのような精密な仕事を可能にしたようだ。
 この部屋と平行してもう一つ洞窟が掘られ、二つをつなぐ横穴の奥に天皇の写真を奉ずる御真影部屋、食料倉庫、炊事場まで設けてある。更には、裏山に通じる避難通路まであった。
 工事は、昭和18年8月から終戦の昭和20年8月15日まで続けられた。終戦が近づくと、グラマンによる機銃掃射を避けるため、この中に600名の生徒が身を潜めたという。防空壕内を一巡りして外に出ると、外は変わらぬ穏やかな田園風景である。
「宮には古代から現代までの歴史が詰まっているね」
「佐世保市の中でも独自の文化を保ってきたとやろね」
 足下には宮村川が何もなかったようにとうとうと流れ、背後の林では夏の終わりを告げるヒグラシがいつまでも鳴きつづけていた。

掲載日:2006年09月25日