海水浴の想い出海がつなぐ浅子町

 朝目覚めると、梅雨の終わりを告げる雷鳴が響いていた。青い海、白い砂を見ようと、浅子に向かった。
 相浦・真申を経て、佐々川に架かる見返り橋を渡り、佐世保市小佐々町に入った。大悲観公園の前で臼ノ浦線へと車線を左に移した。しばらく進むとラッパ状に広がる臼ノ浦の入江に着いた。分岐点を右に行けば臼ノ浦港であるが、ハンドルを左に取り、海岸沿いに進んだ。
 対岸の臼ノ浦港は、かつては石炭積み出し港として栄えたが、今はその面影はない。港の先に尖った三角形の山が見えた。緑におおわれた山であるが、かつてボタ山であったことを知る人はきわめて少なくなった。あらためて自然の回復力に驚嘆せざるをえない。
 浅子町梶ノ浦に着くと、船着き場にはイカ釣り船が繋船されていた。薄曇の間から青空がポッカリと顔を出した。夏を待ちかねたように、蝉の声が一斉に浦々に響き始めた。背後の丘に浅子小中学校の校舎が見えた。佐世保で唯一の小中学校併設校で、合わせても生徒50人余りの小さな学校である。

浅子カトリック教会もクリスマスには光のイルミネーション
 車はアップダウンしながら進んで行く。沿道の家々は、クリスマスのシ−ズンになれば、色とりどりのイルミネ−ションで飾られる。浅子はカトリックの町でもある。
 柳ノ浦に着くと、棚田に向かって歩いて行った。墓地に上がる通路には、水が溢れ出て川のように流れてくる。昨夜の雨の量が推しはかれる。
 ほとんどがカトリック墓で、黒ミカゲの墓石の上には皆十字がのっている。墓地の入口付近は、家名の刻まれた墓が多いが、奥に上っていくと、マリア、ペトロ、ヤコブなどの洗礼名が刻まれていた。中には、西洋式の箱型の伏せ墓もあった。砂岩の墓石で、古いものは大正年間のものもある。
 墓地を巡っていると、陽射しが急に強くなり、土の中から熱気が上ってきた。本格的な夏の到来である。道脇には赤いオニユリの花が揺れていた。

二本松海水浴場から相浦を望む
 墓地をあとにして、再び車に乗り込み、池ノ谷へと向かった。池ノ谷の浅子漁港は、V字型の浦の片面に堤防が築かれ、中には数隻の漁船が繋船されていた。漁船も他の漁港から来た船が多く、浅子の住民で漁業を営む人は今では数える程であるという。
 漁港の背後には、浅子カトリック教会があった。梶ノ浦にあったのをこの地に移し、昭和5年に建てられた。教会の前には、南方系の樹木アコウの木が、緑の枝々を大きな傘のような形に広げている。黒いドレスを着た婦人たちが教会に入って行く。葬儀が始まるようだ。天国へ行く人のために賛美歌が奏でられる。
 漁港側に車を置いて、歩いて立石の海岸へ上って行った。高い崖の上に立つと、足下にはケスタ地形が作る、洗濯板のような岩が露出し、波に洗われていた。前面には九十九島の島々が広がる。立石を回り、崖の小道を砂州へと下り立った。砂州は岬と立石鼻をつなぐ砂の道で、岬に向かって右手は九十九島、左手は相浦である。左手の岩々の上を渡り、回り込むと浅子(二本松)海水浴である。
「子どもの頃は、海水浴をしによく相浦の弁天松やこの二本松に来たね」
「そいにしても、相浦漁港は目の前だね」
 船が主な交通手段だった江戸時代から、浅子は行政上山口村(相浦)の管轄下にあり、湾内の藻刈、カジキ網などの入会権に関する古記録が残っているという。その後、明治初年のキリスト教解禁で、黒島のキリシタンたちが浅子へと渡って来た。
 戦後、白浜海水浴場ができるまでは、相浦港から渡し船に乗り、多く人々が海水浴に浅子を訪れた。
 人気のない浜辺を歩くと、波が静かに打ち寄せる。キャンプ小屋の白いドアが、南風を受けてバタンと音を立て開くたびに、遠い夏の日の思い出がよみがえってくる。

掲載日:2006年08月23日