かつて海軍と共に遊廓の賑わいもあった

 午後になると梅雨の黒雲が去り、薄い雲のベールを透かして降り注ぐ日の光で、街全体がほんのりと明るくなった。
 昭和初期の市街地地図を片手に、勝富町界隈を散策することにした。小佐世保川沿いの小佐世保、須佐、高天の三町に挟まれた三角地点に、かつて勝富遊廓があった。
 二人は路地の中に入り、アパートや料亭跡などを見て回った。古い木造の建物に残る格子窓やヨーロッパ風の彫り物細工などに、まだ当時の風情が残ってはいるが、料亭やホテルなども次第に取り壊され、確実に変化している。
 昭和初期の地図に載っている「二葉楼」「新盛楼」「油屋」などの遊廓の場所を確認しながら歩くと、今にも白塗りの娼妓が格子窓から顔を出してくるような錯覚にとらわれてしまう。
 勝富遊廓の前身は木風遊廓で、海軍鎮守府設置の2年後の明治24年、旧小佐世保免へ移転した。別名小佐世保遊廓という。格式も高く、最盛期には一軒で30名の娼妓をかかえたとこもあった。遊客の多くも海軍の上級士官で、民間人は容易に寄りつけなかったという。

勝富町あたりの建物に栄えた頃の名残りがある。
 勝富町から名切へと移動し、中央公園の通りを歩くと、再び空は黒雲に覆われ、小雨が降り始めた。現在のソフトボール球場付近は、戦前は太田町と呼ばれていた。第2次世界大戦の空襲によって太田町は焼失し、戦後は米軍住宅となっていた。エンタープライズ事件の翌年の昭和44年に返還され、現在のような公園となった。
 昭和初期の地図で、当時の町並みを確認した。花園遊廓は、県立武道館前あたりから現在の花園中学校までの広い範囲にびっしり並んでいた。
 花園遊廓はもともと宮田町にあった私娼を、中心街にあるのは目立ちすぎるとの理由で移されたという。日露戦争後の明治43年のことである。
 花園遊廓は勝富遊廓に比べて、個々の建物は小規模であったが、料金も安く、水兵でも遊べた。廓の数も多く、大正時代の最盛期には、650名もの遊女を抱えて一大不夜城を現出させていたという。
 遊廓への入口であっと思われる花園橋を渡り、廓跡を巡った。公園内は緑の芝生と雨に木立に包まれている。あちこちに紫陽花が可憐に咲いていた。

名切公園いったいに、びっしりとした娼家があった。
 熊野町本尊寺横から、佐世保北高へ上る小道を数十メートル上ると、右手に大正十四年と刻まれた小さな石柱が立っていた。成田山不動院の参道入口である。急な石段を上って行くと、竹林に包まれた岩下の崖に彫られた石仏にぶつかった。肉彫りの磨崖仏で、三十三観音が参道に沿ってずらりと並んでいる。筒井富士登他2名の石工による大正期の作のようである。それにしても、仏像の横に彫られた施主の名が全て女性であるのが奇異である。
「施主たちは廓の女将さん達や娼妓たちじゃなかやろか」
「そう言えば、以前は県立武道館横の熊野神社跡にも、小さな石祠と共に、等身大の女陰石が祀られていたね」
 大岩が作るトンネルを抜けると、小さな広場に出た。不動院の庭には7mの不動明王が安置され、さまざまな石仏が並んでいる。山門から入った正面にはお百度石も据えられ、かつては娼妓さんたちが、願い事や病気平癒などのためにお百度を踏んでいたという。旧海軍の街佐世保には、哀しい女の歴史が秘められている。
 戦災で花園、勝富両町の遊廓はほぼ壊滅状態になるが、やがて勝富町に遊廓が復活した。しかし、昭和33年の売春禁止法の施行により、70年の歴史をもつ佐世保の遊廓も消滅した。
 広場を一巡りした後、中央の小丘に上った。緑の向こうに、米軍や自衛隊の艦船などが並ぶ佐世保の港が見える。出港を告げる船の汽笛がボーッ と鳴った。入船、出船の度に数々の悲話が生まれたのであろう。
掲載日:2006年07月20日