三川内焼のルーツ、韓国熊川の黄さんと三川内を訪ねる

 国道35線を佐賀県境付近で右折し、踏み切りを横切った。線路脇には、「木原山道」と刻まれた古い小さな道標が立っていた。
 小雨の中、細い農道を進んで行くと、金山の山裾に着いた。同行の黄正徳さんが窯跡の入口に立つ説明板の文字を写し始めた。黄さんは、2年前二人が韓国の鎮海市を訪れたとき、三川内焼ゆかりの窯跡や城跡などを案内していただいた方で、鎮海熊川郷土文化研究会長を務めている。今回は、我々が三川内焼関係の窯跡などを案内する番となった。
 ぬれた草を踏みしめながら山道を進んで行くと、途中の土手が崩れて赤土が露出し、陶片が散見していた。淡いうぐいす色をした溝縁皿である。雑木林の中を上って行くと葭の本1号窯跡があった。鉄の柵で囲われ板の屋根で保護されている。1号窯跡は、昭和35年に県の文化財に指定され、絵唐津や溝縁皿のほか天目茶碗などが出土する。

三川内焼の初期の頃のものと思われる葭の本窯跡。
 2号窯跡、3号窯跡を確認するため、更に奥へ進んでいったが、雑木に覆われて、今は窯跡を確認することが困難である。わずかに赤土や陶片などを見ることができた。昭和57年度に発掘調査が行われ、砂目(砂を団子状に丸めたもの)で重ね焼きされた土灰釉溝縁皿などが出土した。
 葭の本はいずれも陶器用の窯で、幅2.5m程の室が15〜16室ある階段状連房式登り窯であるが、陶器から白磁へ移行する時期に築かれた窯跡である。そして、その重要な鍵を握るのが葭の本で出土する溝縁皿で、溝縁皿を焼いた陶工たちは、日本で初めて白磁を焼いた朝鮮人陶工と同じ系列の人々のようである。
 現に、同じ三川内地区木原の地蔵平東窯では溝縁皿と共に白磁が焼かれている。砂目積技法を使った溝縁皿が出土する窯跡は、西有田の原明、有田の天神ノ森などにも見られる。三川内焼は平戸中野にいた陶工たちが始めたと言われるが、有田地方の影響も受けたようである。

高麗媼を祀った窯山神社がある天満宮。
 葭の本窯跡の西南500mの所にある「金久永」の墓を訪れた。墓地の中央に聳えるタブの木の根元に、1m程の板碑が斜めに立っていた。碑面には「宗金」「妙永」と刻まれているが、今のところ葭の本と結びつく資料はない。黄さんは、背後の林の中にある葭の本の位置を確かめた後、遙か北の韓国を感慨深そうに眺めていた。
 帰りは、木原の臥牛窯の背後にある地蔵平窯跡を確認した後、一度国道に戻り、三川内山に入った。
 しばらく進むと左手の斜面にミカン畑が見えた。長葉山古窯跡である。元和8年(1622)、中里エイ(高麗媼)が127名の陶工たちと共に伊万里の椎ノ峰から三川内に移住し、最初に来たのがこの長葉山であるという。
 児童公園横の駐車場に車を留め、黄さんを共同墓地へと案内した。山々の瑞々しい新緑が鮮やかである。最上段の中央に立っているのが、三川内焼の基礎を築いた皿山棟梁・今村弥次兵衛(如猿)の墓である。通説によれば、今村家の祖は朝鮮熊川出身の巨関で、松浦鎮信が朝鮮の役の際に平戸に連れて来たとされる。三川内焼は巨関の子と伝えられる今村三之丞が椎ノ峰から来た高麗媼と共に起こし、三代目の如猿の代に平戸藩の御用窯として確立されたのである。

 最後に集落の一番上ある窯山神社(天満宮)を訪れた。神社の参道と平行して西窯跡、更に谷を一つへだてて東窯跡が並んでいる。窯山神社に祀られる高麗媼はサンパラゲと呼ばれていたようであるが、高麗媼のふるさと熊川のサンパウゲ(三浦)が訛ったようである。煙突と陶房が並ぶ谷の対面にあり、如猿が祀られる陶祖神社は、熊川明神と呼ばれていたという。三川内焼と鎮海市熊川とのゆかりの深さを改めて感じた。

掲載日:2006年05月15日