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2012年01月19日

「0S-61アップデートのお知らせ」

いや〜、昨年10月からこの帳面まったく更新しておりませんで失礼しましたぜ!! 昨年暮、酒友の醤キエロと、ご飯がススム伊藤氏が「まきたろうブログ、読みたいね」なんて焼酎交わしながら、社交辞令申すもので、「よし来年はビシバシ更新オーライ!」なんぞと酒臭まきちらした面目もあり、約束通りよしなに帳面を記すこととあいなりました。
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まず帳面に身が入らなかったいい訳から申し上げますと、昨年夏に欲しかったディバイスを手に入れたことにより、appleやgoogleにはまりまして気もそぞろ。ちょっと煙たかった携帯文化とPC文化の呪縛から解放され、己の人生観にあったアプリをカスタマイズカスタマイズの日々を送っておりました。


まるで新たな人格を与えてくれたような錯覚すらもたらしてくれるIT革命に酔いしれること2ヶ月半、我が心身をつかさどる0S-61(S36年製造)の問題点やバグの修正も同時進行で進め、ようやく本日アップデート! イェ〜ィ! 帳面に元気に帰って参りました。


ほれほれ、まずは我が容姿を映した新キャラも、ちょいあか抜けましたでしょうか? カラーヴァージョンを紹介するでやんす。さらに機能が増し快適な使い心地を実感していただけるであろうOS-61を新搭載した「まきたろう雑記帳」を今後ともなにとぞ、よろしくお願いいたします。

2010年11月16日

「0S-61 最後の小学校生活

1972〜1973年


小学生最後の大イベントは、待ちに待った小松左京のベストセラー小説『日本沈没』の映画化だった。東宝中央にワクワクして出かけたのを覚えている。1万メートルの海の底、日本海溝まで潜っていく深海潜水艇わだつみの実写を遂に体験。パイロットの小野寺(藤岡弘)と、田所博士(小林桂樹)もかっこよかったぁ。長年リスペクトしてきたガメラ、ゴジラという二大怪獣映画からパニック映画という新ジャンルにステージアップした記念すべき日。豪華役者陣の重厚な演技と、敗戦から華やかに復興したのもつかの間、再び消えゆく国土を憂う日本人。生き残った国民は国際社会にどう受け入れられるのか……? 小6の心にはドデカすぎるテーマを目の当たりにして、ちょっと大人になった気分も味合わった。


また劇中で総理をはじめ国家機関の関係者に地殻変動とマントルの仕組みについて
説明する眼鏡をかけた学者の姿になぜか魅了された。その時点でその人物が東大教授の地球物理学者、竹内均とは知らなかった。後に科学雑誌『Newton』を発刊され、その編集長が、なんと映画で見たあのルックスの人物ではないかぁ〜と大感動。成人後、竹内氏の著書を通じてその生きざまにも影響を受けた。


73年〜74年、お正月映画『日本沈没』に心を躍らせた私は、その後半ズボンを脱ぎ、カンコー学生服(乃木服の百恵ちゃんと、カンコーの淳子ちゃんの選択肢だった)を着て福石中学校の門を潜ることになる。残された小学校生活の記憶はあまり鮮明ではないが、ハヤカワSF文庫のキャプテン・フューチャーシリーズを読みあさり、『子供の科学』を毎月購読していたと思う。

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そんな春のある日。テレビで流れていたローカルニュースに、いきなり福石中学校が登場した。たぶん卒業式だったと思う。体育館に掲げられた日の丸の旗が降ろされ、生徒たちが『戦争を知らない子供たち』を大合唱したというショッキングなニュースだった。反戦どころか反体制とかアナーキズム、日教組、ヒッピー、ラブ&ピースもよく知らない12歳の私にはテレビで見たことしかないストリーキングに負けないインパクト放つ映像だった。しかも、この春からこの中学校へ入学する身である。一体、どんな学校なのか? 深海潜水艇わだつみ、キャプテンフューチャー、コメット号に憧れ、『子供の科学』を愛読していた少年には、計りき知れない世界が待ち受ける中学校に思えた。


もう一つ、小学校生活の大きな事件は生まれて芸能人と握手をしたことだ。四ヶ町の西沢本店(アルバ西沢)の屋上だったことを覚えている。ちょっとしたステージショーがあったかのか否かは記憶がない。しかし、あの屋上に折りたたみテーブルと椅子が置かれ、左とん平が座っていた。順番にサインと握手をいただいた記憶だけが鮮明に残っている。たぶん『ヘイ・ユー・ブルース』の大ヒットで、この地まで足を延ばしたのだろう。

2009年10月13日

「OS-61 小学生高学年篇」

●1971〜1973年


テレビで『仮面ライダー』の放送が始まった。変身人間というヒーローは実に刺激的。男子児童の間でたちまち「ヘンシンブーム」が巻き起こった。もちろんライダーカードにも夢中になったが、箱買いする奴、スナック菓子だけ、ありがたそうにもらって食べる奴など、子供の世界に経済の仕組みを見てしまいカード収集に冷めた。ちなみに初めて憧れたヒロインはアニメ『ど根性ガエル』の京子ちゃんだったと思う。


旧佐世保市立図書館でポプラ社の江戸川乱歩・少年探偵シリーズをよく借りて読んだ。この頃、切手収集も流行った。札幌冬季オリンピックや高松塚古墳壁画の記念切手を買って、ストックブックに大切に保管した記憶がある。アメリカンクラッカーが大流行。欲しくて欲しくてたまらず、親に買ってもらった。カラフルなプラスチックボールを振り子状にぶつけ合って「カチカチ」とリズム刻んで遊ぶシンプルなおもちゃ。黄緑色のアメリカンクラッカーを買ってもらった。が、ブームが去るのも早かった。


チャールズ・ブロンソンのCMマネ「ウ〜ン、マンダム」が流行った。
野球選手に憧れて地域(天神一組)の少年ソフトボールチームに入った。補欠だったが、初めてもらったよれよれのユニフォームの背番号が「16番」だったので嬉しかった。4歳下の弟が小学校に入学する際、スペクトルマンと記念写真が撮れる特典付特売会で学習机を購入。兄弟揃ってヒーローと写った記念写真は宝物だった。念願のフラッシャー付自転車を買ってもらって有頂天だった。


いしだけ動植物園の広場で『タイガーマスク』や『バロムワン』のキャラクターショーを見た。生のスタントに感動。ショーの後、満面笑みでキャラクターと記念撮影。いまも写真が残っている。
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『あしたのジョー』大人気の中、『荒野の少年イサム』に憧れガンマンを夢見た。NHK少年向けドラマ『時をかける少女』や『夕映え作戦』を夢中になって見た。


名切公園のおくんち広場で、「ひよこ釣り」をした。赤、青、緑、桃色のカラフルひよこは、家に持ち帰ってもとってもかわいかった。ある日、縁側で猫に襲われ何羽か食べられてしまった。生き残ったひよこを大事に可愛がっていたが、体の塗装が次第にはげてきた。ひよこから鶏に近づいてくると、あまりかわいらしくなくなり、お世話しなくなった。するとじいちゃんが庭に鶏小屋を作ってそこで飼われた。やがてコケコッコーと朝夕鳴き声を上げるまで立派に成長した。


盆と正月になると両親がよく「男はつらいよ」シリーズを観に連れて行ってくれた。映画館は満員で大人たちの笑い声が響いていた。大勢でスクリーンを共有する映画の面白さを味わった。映画好きだった両親は『ラブバック』『ドリトル先生』など楽しい洋画にも連れていってくれた。時には『十戒』や『ベンハー』など大人向けのスペクタクル超大作も鑑賞した。意味が分からないながらもカズバの70mスクリーンで観る洋画のスケールの大きさに度肝を抜かれた。


小学5年生の冬休みだった。ばあちゃんが火鉢で焼いてくれた餅に醤油をつけて食べながらテレビで浅間山荘事件の実況番組を見た。「ひどかことさすね」と呟きながら餅を焼くばあちゃんの姿が印象的だった。


6年生のときに『日本沈没』上下を読み衝撃を受ける。学習発表会で模造紙に地球の断面図を描き、地質やマントルの構造を発表。日本海溝や深海潜水艇に興味が広がった。学芸会で『荒野の少年イサム』をベースにした台本を書き、クラスメートと寸劇を作って発表した。生まれて初めての演出、出演体験にワクワクした。


アニメ『ガッチャマン』『マジンガーZ』はもちろん、時代劇『木枯らし紋次郎』、刑事ドラマ『太陽にほえろ』に子どもながらかっこよさを覚え、爪楊枝をくわえたり、ショーケンのマネをして遊んだ。『刑事コロンボ』にはまった。「うちのカミさんがね…」の口癖もよくまマネしてた。NHKで『新八犬伝』の放送も始まる。人形劇の面白さを知ると同時に挿入歌にもなった『仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌』という八つの珠の魅力に惹かれた。『ゲバゲバ90分』もカルチャーショックを覚えて番組だった。


ある日の夕食にフライドチキンみたいな鶏肉メニューが出てきた。ご馳走なのにどうした訳か大人たちもあまり口にしなかった。わたしは食べたのか食べなかったのか? この件に関しては記憶が薄い。翌日からコケコッコーという鳴き声が消えた。小屋には鶏の姿もなかった。鳴き声がうるさいということで、昔料理人だったじいちゃんが締めて、料理したという噂が家庭内に流れたが、じいちゃんは煙草(エコー)をくゆらせながら、「売った…」とクールに笑うだけだった。


アグネスチャンのLPレコードを買ってよく聴いた。母親が買ってきたシングル愛鳥盤では由紀さおり『夜明けのスキャット』、尾崎紀世彦『また逢う日まで』、仲雅美『ポーリュシュカ・ポーレ』を気に入ってよく聴いた。


中学校へ入学前、カンコー学生服にするか乃木服にするか悩んだ。その原因はカンコー(桜田淳子)、乃木服(山口百恵)という二大アイドルによるイメージ戦略に少年の心は大きく揺れた。ちなみに購読雑誌も『中一コース』と『中一時代』で、淳子ちゃんと百恵ちゃんのガチンコ。悩みに悩んだ末「中一コース」を買い、楽しかった天神小学校を巣立った。

■付録「1971〜1973年・佐世保の主な出来事」
71年(S46)
卸本町誕生。アツギナイロン工場落成。西肥バスワンマン化。佐世保刑務所が福石町から浦川内町へ新築移転。
72年(S47)交通公園に蒸気機関車D51到着展示、交通公園オープン。柚木炭坑閉山、市内炭坑ゼロになる。市立西高校が県立佐世保西高等学校になる。京町地下道開通。
73年(S48)
県外集団就職列車スタート。オイルショックでトイレットペーパーパニック行列。児童文化館のプラネタリウム館完成。
(※参考資料/『佐世保年表』佐世保市発行) 

2008年11月21日

「OS-61 小学生低学年篇」

●1968〜1971年

初めて自分の小遣いで買ったレコードは1年生のとき。ピンキーとキラーズの『恋の季節』だった。中学生がいる従兄弟の家に遊びに行くと、『黒ネコのタンゴ』やゴールデンハーフの『黄色いサクランボ』、ドリフターズの『ズンドコ節』、タイガースのレコードなどがあったのでワクワクした。テレビから流れてくる音楽ではNHK『新日本紀行」のテーマ曲が気に入っていた。

米原子力空母エンタープライズが入港。自宅そばの高台から従兄弟たちと一緒に双眼鏡で眺めた記憶がある。船の上に並んだ戦闘機が印象的だった。

幼稚園の頃から通園時によくお腹が痛くなった。小学生に入っても正露丸やビオフェルミンを服用していた。夏休みや冬休みは学校で買う肝油ドロップが楽しみだった。使い切り寸前の缶入り練乳のフタの裏をなめると幸せな気分になった。

土曜日の夕方になると近所の子どもは決まってアニメ『巨人の星』を見た。なぜか星飛馬よりお坊ちゃまの花形満に憧れた。アフタヌーショーの浪越徳治郎コーナー「指圧の心は母心、押せば泉の命湧く〜」のマネして面白がっていた。
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小学入学前、映画『サンダ対ガイラ』を観た。しばらく風呂やトイレへ行くのがすごく怖かった。映画『ガメラ対ギャオス』を観て無性にガメラの背中に乗りたくなった(主人公みたいな黄色い野球帽を買ってもらったがガメラは一度も現れなかった)。そこでカメを欲しくなった。映画『緯度0大作戦』を観て空想世界に興味を持った。3年生のとき、映画『ガメラ対ジャイガー』を観て今度はボーイスカウトに憧れた。同時上映だった『透明剣士』を観て剣道にも憧れた。

アポロ11号による人類初月面着陸。親たちは一生懸命見ていたんだろうが、夜中で寝てしまったのだろう。あまりはっきりしない白黒テレビの画像がかすかに記憶に残っているだけ。どちらかというとコント55号の番組で行われていた野球拳やドラマ『時間ですよ』の女湯シーンの方が子ども心に焼きついた。

この頃、わたしはぜんそく持ちだった。発作はわりと軽かったようだが、夜中にゼィゼィ、ヒューヒューと音をたてた呼吸をしていたのを覚えている。

『ウルトラセブン』のウルトラホークや『サンダーバード』2号、4号、『キャプテンスカーレット』の追跡戦闘車、マッハ号など男心をくすぐるメカニックの造形美に魅せられた。『謎の円盤UFO』という海外ドラマでUFOという存在を初めて気にした。

初の習い事は習字。兄弟の多いご近所のお宅で先生が訪問指導する教室に混ぜてもらって毎週月曜日の夕方に習った。ちなみにこのお宅は当時、唯一電話機を備えた家庭で、電話の取り次ぎも行ってくれていた。習字終了後、夜7時から見る特撮ドラマ『コメットさん』が好きだった。中でもGIジョーが出てくるオモチャの反乱する話が面白かった。

コメットさんが終わり7時半になると親がNHKの『新日本紀行』にチャンネルを変えていたから、あのステキなテーマ曲が今も心に残っているのだと思う(富田勲作品と知ったのは大人になってからだった)。そして8時になると茶の間は『水戸黄門』を家族みんなで共有する劇場に変わった。

子どものいない隣のおじちゃんが近所の同級生マサチャンとわたしを「玉屋」に連れていってくれた。屋上遊園地でコーヒーカップに乗ったりして遊んだ帰り道「蜂の家」でシュークリームをご馳走してくれた。こんなに美味しいお菓子があったんだと驚いた。玉屋と蜂の家のはしごは子どもにとってすごい贅沢なものだった。

初めて近所の貸本屋に行った。『ちかいの魔球』か『黒い秘密兵器』だったと思う何か野球漫画を借りた。母の友だちの家だったと思う。インテリアにミニカー(トミカ?)が飾ってあるのを見て心が躍った。

クワガタとりが上手な近所のニシノくんのナビゲートで初めて天神山を探索した。樹液をすするクワガタの横にいた大きなスズメバチがとても怖かった。衣服にくっつく天然マジックテープ機能搭載の「バカ」と呼ばれる植物(オナモミ)を投げて遊ぶ楽しさを覚えた。

佐世保では人糞尿の「肥やし」や汚物、排出物などを「だんぼ」という言葉で表現。子どもの世界では汚いものをくっつける意味をこめた仕草で「だんぼ」と口ずさみ相手にタッチ。「かぎ」という言葉と指輪っかで「だんぼ感染」から身を守る、という変な遊びもあった。

草の茂った空き地で上級生が作った「基地」を発見。触発され近所の同級生たちと藁や段ボールを使った初めての隠れ家を作った。

駄菓子屋は近所の通称「ババ小屋」によく通った。クジもよく引いたが、低学年の頃はぺちゃ(めんこ)もまだまだブームだった。この頃よく引いたブロマイドはウルトラマンやゴジラ、ガメラの怪獣ものだったと思う。サンスターのスパイメモ(手帳)が流行った。学校近くの文具屋さんで買ったが、水に溶けるメモがもったいなくて使えなかった。

学校で売られていた学研の学習雑誌「科学」と「学習」は付録が欲しくてしかたないくせに、なぜか学習の方をよく買っていた。

ばあちゃんが孫三人(弟と従兄弟とわたし)を連れて怪獣映画を観に連れていってくれた。作品は『ゴジラ対キングコング』のリバイバル上映だった。シネスコ画面の両サイドからゴジラとキングコング現れバトルを展開するクライマックス富士山麓決戦シーンに興奮した。孫三人でもう一度観たいというと、ばあちゃんは承諾。さすがに2回目は、ばぁちゃんは口を開けて眠っていた。

そんなばあちゃんがじいちゃんとおしゃれして大阪旅行へ出かけた。万博博覧会だ。お土産にもらった記念コインやグッズがとても嬉しかった。岡本太郎の「太陽の塔」は低学年のわたしにも、ものすごいインパクトを与えた。三波春夫の歌う『世界の国からこんにちは』や水前寺清子の『三百六十五歩のマーチ』に子どもながらも日本の明るい未来を感じていた。

軍服にはちまき姿で演説している男性の映像が記憶に残っている。後に三島由紀夫と知るが、当時3年生だった私は何が起こったのかまったく分かっていなかった。 (つづく)

■付録「1968〜1970年・佐世保市の主な出来事」
68(S43)年
原子力空母エンタープライズ入港。全学連と警察隊が佐世保橋で激突。19日市民の会初デモ。総合グランドにプールとテニスコート完成。スポーツランドにアイススケート場オープン。ラジオ佐世保が浜田町に移転。
69(S44)年
ベトナム戦争で空母の出入りが最高数に達する。精霊船の花火で四ヶ町火災。SSKバイパス、針尾バイパス開通。下原ダム完成。テレビ長崎KTN放送開始。
70(S45)
西海橋通行料無料化。総合グラウンドに子供用プールオープン。佐世保北高校卒業式で一部の生徒が卒業式を妨害。逮捕されるなど高校生にも反戦ムード。
(※参考資料/『佐世保年表』佐世保市発行)

2008年06月20日

「OS-61」


わたしは西暦1961年に生まれた。邦歴、昭和36年。坂本九の「上を向いて歩こう」や植木等の「スーダラ節」などがヒット。映画「用心棒」や「大学の若大将」「モスラ」「ウエスト・サイド物語」「ティファニーで朝食を」が公開された年で、セリーグは巨人、パリーグは南海が優勝。米国ではケネディ大統領が就任。都会ではムームーというドレスやホンコンシャツが流行。マーブルチョコやエンゼルパイが新発売された年だという。

チョコ菓子と同じ年輪を積んだわたしの意識や思考、価値観は一体どこから始まり何に刺激や影響を受けながら今日に至ったのか? 気になる。

仮に地球生命や祖先の情報を記憶したDNAをわたしのプログラムと考えてみる。すると誕生後に起動とスリープを繰り返し、見たり、聞いたり、食べたり、体を動かしtて育んだものはどんなアプリケーションとシステムを使ってきたかということにも似ている。

そうするとハードとなるのはこのボディ。 脳はOS……? といった具合に人の身体は次第にコンピュータ化して行く。

誕生西暦を製造年に見立て「OS-61」と名付けたこの帳面では、わたしのハードディスクに残されているメモリを引っ張りだせるだけ遡ってみることにする。
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毎日、摂取している麦酒とニコチンで破損し開けないデータも多かろう。しかし、いずれの嗜好品も旧式のウイルス対策ソフトのようなものだ。

それでは次回よりこの「OS-61」に記憶しているデータを記してみたいと思う。ちなみに幼児期はウンコやオシッコをもらしたことくらいしかデータが残っていないので、第1回目は「小学生編」から始めてみたいと思う。(つづく)