第5話 〈トッケン〉 ※第4話からの続き
九月二十九日、土曜日、午前五時半過ぎ。空は明らみ、国道の車輌もヘッドライトを消灯。往来が少しずつ増し、一日の始まり風景に転じております頃、わたくしは独り京町バス停留所の赤いベンチに腰かけて七星特別仕様薄味を胸ポケットから取り出しました。ありゃ……なんだこりゃ? ポッケの中に紙の手触り。なんと紙幣でございます。折り曲げたお札が二枚。計一万一千円が突如、出て参りました。わたくしはマギー司郎か? ゼンジー北京か? はたまた酔うて意識をなくした約二時間の空白に困惑しながら、ぷかり、ぷかりと名曲『浮雲男』を思い出しながら、煙を吹かしておりました。
ここで、ターボさん登場。「なんしょっと〜」と、優しい笑みは、その時のわたくしには天使の微笑みにも感じられました。記憶のある範囲で状況を説明すると、ターボさんは、最後に出た大型居酒屋店からベンチまでのわたくしの足取りを再検証。もし、財布だけ何者かに抜き取られたとしたら、と戸尾市場の公衆トイレあたりまで、沿道の花壇やゴミ箱類を捜索してくれました。その姿は名探偵金田一耕助のようでもありました。「なかね、交番に行こう!」ということで、二人で京町交番に向かいました。
佐世保一の歓楽街である夜店公園通りの一角に位置するこの交番。なぜか地元のでは“トッケン”の異名で呼び親しまれております。由来は、その昔ここに“特別憲兵隊”があったから、と聞いたことがありますが、確かなところは存じません。ただ現在も「トッケンの所まで」とタクシー運転手に告げれば、ちゃんと到着いたします。
一人の飲兵衛の愚行に早朝より四、五名の警察官が対応してくださいました。状況説明したところ、この場合は盗難届けでなく紛失届けが妥当だろうということになりました。「どんな財布でしたか?」「いくら入ってました?」と質問が繰り返されます。財布はワイワイ貿易でシャレで購入したローリングストーンズのベロデザインでしたので「黒い布製で、ローリングストーンズのベロがいっぱいプリントされています」と返答。「!?えっ…あっ、ローリングストーンズ柄ですね」と警察官。給与が支給されたばかりで、必要な現金を全部入れておりました。いつもは二、三千円しか入っていない薄っぺらな財布、昨夜に限って約五万円も入っておりました。飲み代にいかほど使ったか? 胸ポケットから出てきた裸札をさし引き「まだ三万円近くは入っていたと思います」と返答いたしました。
己の不始末でありますので、現金は諦めるしかありません。が、自動車免許証、保険証(健康保険被保険者証)、キャッシュカード二枚、歯科の診察券、佐世保市立図書館カードほかビデオレンタルカードやポイントカード各種が一緒に入っていたのが心配でございます。そうです。本日よりわたくし車も原付自転車にも乗ることができなくなる訳でございます。トホホのホ。これは困った不自由ですぞぉう。週明けから仕事ができないではありませんか。お〜神よ、どうか免許証、カード類だけでも出てきますように。とお祈りしているうちに紛失届けの書類が完成。ターボさんと京町交番を後にしました。
時刻はもう六時を過ぎております。爽やかな土曜の早朝。意気消沈+酔い疲れを背負って再び現場へ。市場ではシャッターが開く音が聞こえて参ります。もしや最後のお店で置き忘れ、落とし物の恐れも考えられますが、もうとっくに閉店しております。本日夕方にも電話で確認してみようということになりました。
それにしても、なぜ胸ポケットに一万円一枚と千円一枚が入っていたのか? 謎は深まるばかり。連れのヤヨ様の記憶も大事になってまいりましたが、まだ連絡がとれません。幸いにもこのお金で十分タクシーには乗れますが、このまま家路というのも、なんだか後味が悪く、わたくしは「ターボさん朝市に行かん!」と一声かけました。「あいよ、よかよ」といつもの調子で明るく応えてくれました。
水揚げされたばかりのウチワエビやカニが蠢く姿、茄子や南瓜、牛蒡…。高島ちくわ、スボ…。屋台に立ち上る鍋の湯気…。いろんな食材と働く人々の動きを見ているうちに、少し気分が紛れてまいりました。そうだ。♪ぼくらはみんな生きている、生きているから笑うんだ〜みたいな気分が甦ってまいりました。「朝飯食おうか!」「おぉ、よかよ」朝の空気に映える赤文字の「めし」という暖簾。よしだ食堂にレッツ・ゴー。ターボさんはアジの開き定食、わたくしは、豚汁定食を食しました。
タクシーでターボさんをお店に送り、いよいよ自宅へ帰還。車窓から街並みをぼんやりと見つめるわたくしの頭の中では、なぜか『本日、未熟者』のサビメロがリフレインで流れていたのでございます。〈つづく〉