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「クロの女神」

 三人の共通点はとにかくペースが早い。二杯目からはほぼ手酌形式だ。飲兵衛仲間のイトさん、じゃんキエロ、拙者が久しぶりに宴を設けた。今回は前々から一度足を運びたいと目ぼしをつけていた昭和風情みなぎる評判の酒屋「大八」だ。

 
 午後8時の開宴時間に向け、胸を高鳴らせお仕事しておると、ズボンに忍ばす携帯電話が電文到着を知らせブルル、ブルル、ブルル、ブルル、ブルルと5回振動。じゃん氏からの電文を読み手を震わせ呆れた。「私とイトさんはヒマだったので七時から来てます。寒いので熱燗に移ります。早めに来て下さい」と記されている。

 
 ヒマだったので、熱燗に移ります、早めに来てください……何をたわけたことを電文しておるのか。この裏切り者め。よき中年おやじが女子高生みたいな軽い電文打つな! 一時間も差をつけられて飲むほど悔しいことはないのは、お主たちなら重々承知しておるはずじゃ。
  
 
 それになにより今宵の主菜である“クロの造り”はどうなっているのだ。本日一日中、クロ鯛の造りのことばかりを妄想し、ニヤニヤ労働していた拙者の頭はまさに黒一色。それが一瞬にして真っ白じゃ。拙者の幸せな時間を返せ。行列のできる法律事務所に訴えてやる〜。
  
 
 たっぷり山盛りされた大根のツマと大葉のケン。その上で頭と骨だけになった無惨な盛り皿を想像し、即労働中止。拙者は電文を返信する間も惜しみ、慌てふためいて建物を飛び出し、タクシーで酒屋に駆けつけた。


「は〜い!お疲れさま」と座敷きから猪口を片手にニヤニヤしながら手招きするイトさん。靴を脱ぐなり「この裏切り者め等が〜」と詰め寄ると、頬を赤らめたじやん氏が「僕ら何も裏切ってませんよ〜。まだ二品しか注文してませんよ。あ、これとこれはつき出しですからね〜」、おい、先酔いどもよ、何を小さな言い訳をへらへら並べておる。クロは?クロは?クロは?どこへ隠したあ〜。


「いらしゃいませ」おしぼりを持って看板娘さん登場。「…あ、どうも」「お飲み物何にしましょうか?」「…あ、生を」「はい。クロは今造ってますからね!」と明るく立ち去る娘さん。クロは今造ってますからね!…彼女の台詞を胸の中でゆっくり反芻してみた。

 DSCF1293.JPG女神だ。なんという奇跡。クロの女神が現れたのだ。彼女は確かに告げた。クロを今造っていることを。ありがたき幸せ。この無礼な先酔いどもの胃袋の中にはまだ一片のクロも入っていなかったのである。

 
 50分の遅れを取り戻すように自然と麦酒のペースが上がる。おやおや? これは? ありがたき女神のお言葉を授かった拙者は、ようやく平常心を取り戻し、店内の風情に意識が向いてきた。正面に渋いぜ〜。高倉健のラガー麦酒ポスターだ〜。座敷き、靴脱ぎ場にぽつんと置かれたストーブ。その上に金色の鍋。フタの部七ヶ所穴がほげておる。はて? これは? おでん鍋か?

 
 イトさんが「それ、燗つけ器さ。よかやろ、シブかろ」ほほーう、一度に七つのお銚子をつけることができる鍋。これはレトロ。なるほど。思わず熱燗を飲みたくなる訳ですな〜。鍋を電子写真機でパチリ、パチリしておると、女将さんが「あ〜ら恥ずかしか、汚れとるとに」とまるで自分の顔を撮影されているかのように照れながら登場。まもなくやって来ました。憧れのクロちゃんと遂にご対面でござる。

 
 じゃじゃ〜ん。と卓の上に立派なお造りが据えられた。拙者、じゃん氏、イトさん同時に「お〜お〜っ」DSCF1288.JPGと感嘆。「旨そう〜」再び電子写真機でパチリ。写真機の閃光を浴びるクロ鯛。その美しき姿は報道陣に囲まれた歌姫ビョンセや赤靴下の松坂投手にも引けをとらないオーラーを放っていた。

 
 ラガー麦酒から剣菱と六十余酒の二名酒を同時に燗付け。待望のクロをいざ頂きまする。お〜う。皮のこりこり食感と身の絶妙なる味わいに恍惚の舌鼓。ワサビに加え、女将さんが出してくれた自家製、柚子コショウも使って美味をたっぷり堪能。噂通り旨い肴を楽しませてくれる酒屋でござった。


 花見よろしく、黒見なる幸せな春の夜。めでたし。めでたし。(如月)