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昭和18年の作業風景。皆さんの記憶によると実際より服装がきれいなので、記念写真用に撮られた写真ではないかと思われる。

小学生が掘った巨大防空壕
「無窮洞(むきゅうどう)」。

 かつて大村藩だった宮地区には、貴重な史跡や遺跡が点在している。市制百周年の今年、またひとつ町の歴史をひもとく重要な史跡が公開された。
 終戦後に放置されていた防空ごう跡を、そのまま保存しようという町ぐるみの取り組みだ。市内のあちこちに防空ごう跡はあるが、宮に残るごうは、その規模と細かい造りに圧倒される。当時の宮小学校(国民学校)の生徒約500名が避難できたという大型のシェルターで、岩を削って造った教壇やかまどまで設けられている。しかも作業にあたったのは生徒。まだ幼い小学生がツルハシだけで2年の歳月をかけて掘った防空ごうだ。
 宮支所から川を隔て小高い雑木林がある。この辺り一帯が戦後まで宮小学校があった場所で、記念碑の背後の岩肌には「無窮洞」という文字が彫られている。建造を計画した当時の校長が“無限”“終わりのないさま”という意を込めて「むきゅうどう」と名づけたそうだ。
「勉強はせんで毎日、作業ですよ。私たち女子はホゲで泥運びばっかりでした。重い泥を持って何回も何回も往復しよったですよ」
 ごうの入口で当時を振り返るのは、川辺すみ子さん(70歳)。作業が始まった昭和18年当時に同校へ在学していた4人の同窓生が洞くつを案内をしてくれた。
 まず最初の部屋はモノクロ写真の作業風景の場所。高い天井はきれいにアーチ型に削られ、正面には教壇、壁には飾り柱まで造られている。まるで岩を使った彫刻といった感じで、講堂、または礼拝堂のような趣を持つ空間が広がる。
「岩は柔らかいんですが、ツルハシの先が潰れるんじゃなくて、どんどん尖ってくるとですよ。最後は突き刺さるだけで掘れんごとなるとです」
 石の教卓を懐かしそうに撫でながら語るのは川内勇さん(69歳)だ。
 鍾乳洞のような独特の光沢を見せる岩肌は、確かに力を入れずに金属片などで簡単に削れる。火山岩塊などが火山灰で固結してできる凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)という地層が、これだけち密で細かい作業を可能にしたのかもしれない。
「細かい仕上げは女生徒が中心やったですね。ノミと金づちでコツコツ削っていくとです。この部屋は先生がつきっきりで、特に念入りに仕上げばさせられたですね。柱が一番難しかったです。懐かしかぁ」
 想い出の柱に触れながら言葉を詰まらせる岡本敏枝さん(71歳)が手がけたのは、天皇の写真を奉る御真影部屋。生徒は絶対に入れない特別な場所だったそうだ。
 その奥には本土決戦に備えるためだったのか、食料倉庫、かまどまで備えた炊事場まで造られている。
 これだけの大工事にたずさわった子供たちは一体どんな思いでツルハシを振り、泥を運び出す作業を日々続けていたのだろうか?
「上級生は学徒動員に行かすでしょ、低学年には重労働でしたが、いやとかきつかとか、いう時代じゃなかったからですね一生懸命でしたよ」「戦争に勝つために安全な場所ば造らんばという気持だけですたい」「空襲になったらどうしよう、早う造らんば」と皆さん全員が戦時下という特殊な時代背景を言葉にする。
「一番の想い出ですか? うん校長室に呼ばれ習字の墨を摺ったときですかね。無窮洞という文字を書くための墨でした。緊張しましたね」
 と阿波英一さん(70歳)も大切な想い出をぽつりと呟く。
 この階段は?
「裏山に抜ける避難道ですよ。通気孔の役目もあったっとです。洞くつ側と山側から掘って途中でつながった時は、みんな大喜びでしたね」
 川内さんの説明を聞きながら、喜びはしゃぐ小学生の姿を思い浮かべた。戦争へ対する危機感や恐怖感の中で暮らしながらも、モノを造る楽しさや達成感を味わった子供らしい笑顔だったのではないだろうか。 
 戦後は映画の上映会など、レクリェーションの場として、渇水の時はわき水の貯水場として利用されたこともある無窮洞は、長年閉鎖され人々の記憶からも遠のいていった。
 最後に真っ暗な避難道を抜けてみることにした。急勾配の狭いトンネルの中には、ちゃんと階段も掘られている。ライトに浮かぶごつごつした岩肌。まるで冒険映画のワンシーンのような光景だ。「よく掘ったな」と改めて感心しながら、岩を手すり代わりに、足を滑らせながら頂上を目指す。トンネルの壁が岩から古びたレンガに変わり、前方にステンレス製の扉が見えた。ドアを開けるとそこは静かな竹やぶだった。
 終戦が近づくと、この辺もグラマンによる機銃掃射が行なわれた。生徒たちも実際に数回避難し、静かに息を潜め、戦闘機が過ぎ去るのを待った。昭和20年の夏休み。長崎から全身が焼けただれた人々が次々と運び込まれた。被爆者の避難所として使われたのを最後に、生徒たちがシェルターに避難することは2度となかった。
 そして60年、子供たちの“無限”の想い出は再び蘇った。
                     (文・末永 修一)
▲当時小学5、6年世だった川内さん、川辺さん、阿波さん、岡本さん。
▲生徒は近寄れなかった御真影室。
▲かまどを使う事なく終戦になった。
▲避難道は山の頂上付近につながる。
























昭和18年の作業風景。皆さんの記憶によると実際より...





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