ふたたび、佐世保の歴史を歩く。
幕末の儒学者 楠本端山
楠本端山の儒教式の墓

国道202号線を葉山バス停あたりから右折して小道に入り、両側に石垣のある道を幾度かカーブして下りて行くと、楠本端山旧宅の背後に出た。
 台風接近の天気予報が出ているが、嵐の前の静けさで辺りはひっそりとしている。青い早苗が風に揺れ、雲雀の囀りが遠くで聞こえてくる。
 竹林の中の生け垣の道に入り、少し傾きかけた正門を潜った。門は明治3(1870)年端山が平戸の緑カ岡に新築した屋敷の門を、明治14(1881)年、平戸を引き揚げるとき解体して持ち帰り、再建したものである。
 屋敷は佐世保では数少ない鍵屋造りの武家屋敷で、屋根瓦は平戸藩独特の「右ふせ」の平戸瓦である。右手に平戸藩主が訪れたときに増築されたという殿様用の表玄関があり、正面に内玄関がある。
 中に入る前に裏庭に回ってみた。土壁の家に、ツタの絡んだ井戸。紫陽花がかれんに咲いている。屋敷の背後には祠堂があった。個人の家にはまれで、端山が藩を辞して一時ここに静退して、「独り道を行う」ことを実践したとき、儒教風に祖先を祭るために建てたという。在郷藩士であると同時に儒学者であった端山の生活の跡を偲ばせる。
 正面に戻って、内玄関の戸を開けた。土間は薄暗くひっそりとしている。台所に上がると竈があった。水屋の床が竹で編んであり、ひんやりとしている。
表玄関と客間を除く本屋は、天保3(1832)年、端山5歳のとき父の忠次右衛門が建てたものである。雨戸を開けながら進む。表の間、中の間、書斎、居間など、一つひとつ外の光が入るたびに、部屋の中が形を現し、当時の端山の生活と内面世界が蘇ってくるようだ。

楠本端山は文政十一(1828)年針尾在住の平戸藩士楠本忠次右衛門の長男として生まれた。5人兄弟で、端山と3男の碩水が特に秀れていたという。端山は平戸の維新館に学んだあと、24歳のとき江戸へ出て、当時の著名な儒学者佐藤一斉に学んだ。2年間の江戸留学のあと維新館の教授になった。一旦針尾に帰郷していたが再々の藩主の招きで、再び平戸へ出て藩主に講義をすることになった。端山がいかに秀れた教育者であったかを示すエピソードがある。
 明治維新の年、明治天皇が倒幕親征のため大阪に滞在中、天皇が平戸藩主松浦詮公に対して儒教の教科書の一つ「大学」を講義するように命ぜられた。その講義は大変素晴らしかったが、後で端山の陰の力があったということが分かったという。

儒教は、紀元前5世紀頃中国で孔子によって始められた学問である。孝行、礼儀、義理など、中国、韓国、日本の封建社会を支えた道徳律である。日本の武士も、儒教、剣道、古武道などで平和の世になっても心身を鍛練した。
 端山の思想は、「ふびんに思う心を体中に一杯にする」「静座によって天理を体得する」「立ち振る舞いをつつしみ、体得した真理を失わないようにする」など心を中心とするものである。
「薩長を中心とする維新の志士たちが近代合理主義をもとに目を海外に向けたのに対して、端山は君主に対する忠義や心のあり方を大事したとね」
「まさに端山はラストサムライかもしれんね」
 明治という新しい波は彼を受け入れず、端山は官職をやめて針尾に帰った。明治15年、弟碩水と共に鳳鳴書院を創設することになる。「鳳鳴」とは太平の世になって賢才が出るという意味が含まれている。この鳳鳴書院には端山と碩水を慕って全国から塾生が集まった。
「情報化が進み、高度に発達した資本主義社会の中では、もう儒教や武士道のように社会全体の規範となるような思想は出てこないかもしれんね」
「でも、勇気、思いやり、よく訓練された心と体など、今の時代にも学ぶべき点はあるよ」
 まさに今、教育のあり方が問われている。
楠本端山の儒教式の墓
楠本端山の生家は老朽化がすすんで淋しい。
再建された鳳鳴書院。ここに全国から若者が集まって学んだ。

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